たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

『密林の語り部』

2010年03月29日 08時00分52秒 | 文学作品

M.バルガス=リョサの『密林の語り部 El Hablador』(原著1987年、西村英一郎訳、新潮社、1994年)を昨日一気に耽読し、読み終えた直後の興奮が覚めないまま、以下に感想を書き留めておきたい。近代ペルーの現実と先住民マチゲンガ族(Machiguenga)の語り部を視野に収めたこのフィクションの組み立ては、人類学者・民族学者にとって大きな衝撃である。それは、フィクションでありながら、超一級のエスノグラフィーでもある。

◆マチゲンガについて
http://www.nativeplanet.org/indigenous/ethnicdiversity/latinamerica/peru/indigenous_data_peru_machiguenga.shtml
◆ついでにプナンについて
http://www.nativeplanet.org/indigenous/ethnicdiversity/asia/malaysia/indigenous_data_malaysia_penan.shtml
(このサイトにはたくさんの間違いがあるが、参考のため)

主人公は、ペルーの写真展に出かけたフィレンツェの画廊で、アマゾンの奥地の密林に住む語り部を偶然目にする。それは、サンマルコス・大学で親交のあった、ユダヤ人で、顔に大きな痣があり、自分のことをマスカリータ(仮面をつけた男)と呼ぶ、サウル・スラータスだと思われた。サウル・スラータスは、法学を捨て、人類学を捨てて、父の死後、ユダヤに帰ることなく、マチゲンガの人びとの奥深くへと入り込み、語り部となったのである。

マチゲンガの語り部は(20年以上そこに住んでいる言語学者エドウィン・シュネルによれば);
何について話したのですか?そうだね、思い出すのは難しいね、一種の混沌だから。何でもかんでも、少しずつ、頭に浮かんでくることをだね。夕暮れがしたこと、マチゲンガ族が宇宙の四つの世界、自分の旅、魔法の薬草、知っている人々や、部族の神殿にいる神々、小さな神々、その他の架空の存在。見た動物や天体の地形、覚えられないような名前の迷宮になった川。嵐のような言葉を精神を集中して追っていくのは骨が折れた。なぜなら、それはユカの収穫から精霊キエンチバコリの軍隊に話が変わるかと思うと、そこから家族の出産、結婚、死去、あるいは木の流血の時代(彼らはゴムの時代をそう呼んでいる)の諸悪に話が飛んだからだ・・・

確かな証拠はないのだけれども、サウル・スラータスは、マチゲンガの間を歩き回って、人びとが秘匿しつつも、その話を熱心に聞き入る、語り部となったようなのである。語り部が話すように話すことは、その文化のもっとも深奥のものを感じ、生きることであり、その底部にあるものを捉え、歴史と神話の真髄をきわめて、先祖からのタブーや言い伝えや味覚や恐怖の感覚を自分のものとすること」なのである。サウル・スラータスは、「コンベルソ(ユダヤ教からキリスト教への改宗者)から語り部に転生した」。

フィレンツェにいる主人公の語りから構成される1,8章を除いて、偶数章(
2,4,6章)では、主人公とサウル・スラータスとの親交と、25年後のテレビクルーとしてのアマゾン訪問、奇数章(3,5,7章)では、マチゲンガの語り部の語り(7章では、それは、サウル・スラータスのものとなっている)という、バルガス=リョサが得意とする対位法的な組み立てになっている。

奇数章につづられる語り部の語りでは、マチゲンガの豊かな神話的世界が描かれる。

悪戯者のカマガリーニが化けた雀蜂に小便中にペニスの先を指されたタスリンチ。彼のペニスはものすごく大きくなって、鳥はそれを木だと勘違いして、それにとまってさえずった。おしっこをすると熱い尿が滝のように出て、激流の瀑布のように泡立ち、タスリンチと家族はそこで泳ぐことができたという。立ち止まって休むとき、それは腰掛のかわりとなったが、セリピガリの術によって萎まされたのである。その後、タスリンチは、女をかっさらって来たという・・・

原初には、この世界には人間しかいなかった。「彼らは話されて、つまり言葉から生まれてきた。言葉が彼らよりも先にあった。それから言葉が言ったことが生じた。人間が話すと、話していくことが実現した」。そのようにして、言葉によって、人間が動物や木々や岩を造りだしたのである。

マチゲンガは、人間は言葉から生まれたと考える。言葉こそが、何よりもまず先にある。その意味において、マチゲンガは、言葉の使い手、語り部をたいそう敬ってきた。
サウル・スラータスは、それまで持っていたものをすべて消し去り、マチゲンガの文化の中心へと向かい、密林の語り部となったのである。

語り部になることは、嘘のようなことに不可能なことを付け加えることだからである。時間のなかを、ズボンやネクタイからふんどしや入墨へ、スペイン語からマチゲンガ語の膠着語の捻髪音へ、理性から呪術へ、一神教あるいは西洋の不可知論から異教のアニミズムへ回帰することは、想像できなくはないが、そのまま認めることは難しいからだ。

バルガス=リョサは、密林の語り部に、
言葉から世界を生み出す作家を重ねて見ているのかもしれない。それは、また、そのことは、エスノグラファーの課題でもあるとわたしは思う。情熱を抱いて未開人となったサウル・スラータス。「こちら側」にとどまり続け、書くことによって、同時代の問題として、そのことの意味を考えようとする主人公。それもまた、人類学の大きなテーマではないだろうか。

(『密林の語り部』の本に載っていたバルガス=リョサの写真。男っぷりがいい。しかも、われれわれをうっとりさせる、言葉の呪術師=
作家であり、ペルーの社会問題への関心から、1990年には、大統領候補となったこともある。フジモリに敗れ去ったのだけれども)


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1 コメント

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コメントの御礼 (たんなるエスノグラファー)
2010-03-29 09:47:04
このブログを書いている者です。コメントをいただいた皆さまどうも有難うございます。書きっぱなしでコメントいただいても反応せずにたいへん申し訳ありません(一部お叱りもいただいておりました)。この場を借りて、感謝とお詫びを述べさせていただきます。奥野克巳 katsumiokuno@hotmail.com

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