事務所は相変わらずな感じ
あと少しで社長が帰ってくる。
もうちょっとの辛抱だ。
最近アトリエの隣のカレー屋のおじさんが、寒い日にスパイスチャイを差し入れしてくれる。
昨日もおじさんにチャイをごちそうになって 夜にチャイの器を返しに行って、
カレー屋さんの壁に曼荼羅とマニ車が飾ってあることに気が付いた。
「おじさんこれ?マニ車でしょ?」
マニ車はあかちゃんのガラガラのような作りで。
取っ手をもって ぐるぐると回すように使う仏具。
マニ車の中に偉いお経が入っていて グルンと回せばお経が1回唱えられたことになるしくみ。
文字が読めない人も徳が積める道具。
おいらがマニ車をぐるぐるしてると
おじさんはニコニコしながら 壁の曼荼羅に書かれてる人物を指さして
「ブッダ。ブッダ。」という。
家に帰ってから 寝る前にマニ車の事を思い出す。
あんなに回したらすんごい徳が積めちゃったんだろうなと。
-----「徳」について。
おいらのばーちゃんが死んだときのお話。
病院に入院していて いつ死ぬかわからないので身内が交代で番をしてほしいと
病院側から言われました。
おいらの実家の人たちはだれも病院に泊まりたがらなくて
「お前は仕事柄泊まりに慣れてるからお前が毎晩病院に泊まれ。」と通達が来ました。
当時、テレビ局でしょっちゅう泊まり込んでいたおいらは
そんなにつらい役回りとも思わずに了承し、毎晩病院に泊まって
ひたすらばーちゃんの死を近くで待った。
もういつ死んでもおかしくないばーちゃんに対して
身内が死ぬのをあてどもなく待つという構図は、とても滑稽だ。
人はどうやって死ぬのか?
この時のおいらは なにも知らなかった。
病院の夜は静かで、テレビ局のようなあわただしさもない。
とても長い時間 病院にまったく意思の疎通もできない人と二人きり。
朝になると別の部屋の高齢者が亡くなっていくのに ばーちゃんはずっと生きていた。
そして淡々と時間は過ぎていく。
ばーちゃんはドラマのように心静かに生命を繋いでるわけではなくて、
意識もないし、戻らないのに血が喉や鼻に溜まるらしく苦しいのだ、ずっとずっと。
数時間おきに看護婦さんが口を開けてバキュームで吸引してくれる。
そのときの痛そうな音と意識もないのに げほげほと苦しそうにもがく姿を
この光景はきっと一生忘れないだろう。
でも、黙って見ているほかに おいらにはなにもできないのだった。
バキュームが終わると ぜほぜほと意識はないのにしばらく苦しがるばーちゃん。
その枕元に座って 小学校や中学校で習った唱歌を思い出せるかぎり歌ってあげるのが関の山だった。
これがおいらが死にゆく人と向き合う最後のやり方なんじゃないかと思った。
もしかして聞こえてるかもしれないし、だれかが近くにいることが分かるかもしれないし。
でもそれは確かめようがなかった。
苦しくもがいて乱れてしまった額あたりの髪を優しくなでて 直したり、
手をさすったりしていると ばーちゃんは時折涙を流していた。
生前のばーちゃんは自分勝手でとてもキツイ人で、
実の娘(おいらのおかーやんとおばさんの2人)にもずっと愛想をつかされていた。
自分の身の回りのことを娘に下僕のようにやらせていたし、死んだら財産の話やらなんやらで
お家騒動も勃発することがわかっていたためか、だれも信じようとしなかった。
いつもうわべだけの付き合い。
気持ちのいいことを言ってくれる人だけを近くに置いたような人だった。
たとえそうだとしても せめて死ぬ間際ぐらい静かにしたいよね。
そう思っておいらは枕元で死をひたすら待った。
昼前に交代要員のねーちゃんが病院に来てバトンタッチ。
おいらはまた夜に備えるために家に帰り、仮眠をとるというシフトだった。
ねーちゃんに
「あんたよく泊まれるね。あたしゃ怖くて泊まれない絶対無理。」
そんな事を言われたけど、
泊まれといったのはあなたたちなのに、
おいらには生きてる人のほうがよっぽど怖いのだ。
よくドラマである死ぬ間際に人が寄り添って、痛み悲しむということも
ばーちゃんには皆無で それはもうしょうがないことなのだろうとおもった。
ある日 ばーちゃんの容態が昼過ぎに変わった。
息が小さくなり 小さくなり、小さくなり。。。。
最後に少し吸い込んで、空気を吐いて。
心臓が止まった。
その時 おかーやんが言った。
「ずいぶん苦しんで死んだね。徳が積めてないから。」と。
徳を積まないと苦しんで死ぬのか?
おいらの胸の中にそれは刷り込まれた。
また別の話になるのだけど
おいらのお友達の鍼灸の平田先生がおいらを施術しながら
マッサージや筋肉のほぐしをしてくれるときに、
おいらの筋肉は固くくっついてしまっているので、すごく痛くて。
「平田せんせー痛い。死にそう。すごく痛いよぉ。」と泣きわめいても
平田先生は手をゆるめず。
「かんさん。簡単には死ねませんよ。もっと徳を積まないと死ねませんよ。」
と静かに言う。
ムム、
ここでも徳だ。
徳を積むということはとても大切なことなのだな。
おいらの胸に徳を積むべしと また刷り込まれた。
つまり
徳を積まないと苦しんで死ぬ。
徳を積めば、ばーちゃんのような苦痛の死は通過せず、
死ねるのかもしれない。
そんな風に思っている。
さて、徳とはどんなものなのか?
おいらの妄想では、徳はコインのような形をしていて
チャリンチャリンと溜まっていくんだ。
それこそ 貯金箱のように。
徳ボックスとか徳壺のようなものが どんどんと徳で満たされていく。
それがいっぱいになったとき
きっとなんの痛みも苦痛もなく死ねるのではないだろうか。
そんな風に妄想してみる。
ここで一番最初の話にもどるのだけど
となりのネパールカレーのお店でマニ車をぐるぐるぐるぐるぐるぐると 回してしまったので、
もしかしたら おいらの徳壺は口いっぱいになってしまったかもしれない。
もしかしたら このまま寝たら、目覚めないで朝には冷たくなれるのかもしれない。
もしかしたら 行き先も告げず、帰りを気にしない旅にでれるのかもしれない。
そんなことを考えてこの日の夜、寝ましたが。
次の日の朝 ちゃんと目が覚めてしまいました。
つまり
おいらの徳壺は結構の深さと大きさがあって、
マニ車ごときをぐるるぐるぐるぐる~っと回したぐらいでは まだまだで
徳は積み切れてないんだね?
そんなわけで かんたろは今日を生きるのです。
毎日少しづつでもいいから徳を積もう。
壺がいっぱいになるといいな。と 思いながら。
追伸:
このお話はすべて実話です。
Twitterのつぶやきを読んで心配してくれた方がいたので
もしかしてほかにも誤解をさせてしまったのじゃないかと危惧して書きました。
優しいあたなへ どうぞ心安らかな日々をお過ごしください。