亀の川登

難聴に苦しむ男の日記帳。

藩の悪政に真剣に立ち向かった寺島蔵人

2012-05-26 | 学問

今度の高砂大学院の講義は“寺島蔵人の生涯と加賀藩政”だった。

私は寺島蔵人(てらしまくらんと)と言えば“高岡奉行”位の知識しか持ち合わせていなかった。

ところが蔵人は非常に勇気のある人でどんな抵抗に会おうと決してめげることなく、藩の為、農民の為真剣に立ち向かった勇者だったと教わった。

書写、絵画にも通じており文化人でもあった。

         寺島蔵人邸跡

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蔵人は人持(上級武士)組・原元成(1280石)の三男として生まる。

寛政12年(1800)に15歳にて藩の学校(明倫堂)の読師(儒者見習)になる秀才であった。翌・享和2(1801)、馬廻り組・寺島右門恵和の後を継ぎ、450石の禄を受けた。

享和3年(1803)、18歳の時高岡町奉行となり蔵人と名乗った。

文化3年月(1806)高岡奉行を辞め、文化5年(1808)3月御普請奉行当分加入、文化8年(1811)8月定検地奉行、文化9年(2812)3月御勝手方御用兼帯、同年(1814)11月大阪御借財御仕法主付を命じられた。

素晴らしい才能が12代藩主前田斉広(まえだなりなが)(1782~1824)の目に留まり、どんどん出世し藩政に大きく関わる事になった。

あまりのスピード出世のため、年寄衆の反感をかうようになった。

やがて斉広が亡くなると蔵人は年寄衆たちによって能登島へ流された。

蔵人の考えは素晴らしく多くの若者達の共感を生んだが年寄衆の理解が得られなかったようだ。

いつの時代でも新しい考え方は権力者によって握りつぶされるようだ。

100万石の年貢は地元では捌ききれないので、北前船に乗せて大坂まで運び、加賀藩蔵屋敷にいったん納める。

蔵人はこれを売りさばく仕事をしていた。

当時の藩の財政は厳しく、米を売るだけでは藩の財政は賄えず、大坂の商人から多額の借金をしていた。

米の引当切手(約束手形)を切ったが、藩の老臣の諒解がなかったと咎められ罷免された。

老臣達は罪を蔵人に押し付けて借金を握りつぶしたようだ。

蔵人が下ろされたことで、藩の行政は元に戻って老臣達はまた好き勝手に振舞うようになった

心を傷めた藩主斉広が有能な藩士を抜擢し、教諭方という藩政改革のための親政機関(教諭局)を隠居先の滝沢御殿(兼六園内に有った)に設けた。

その頃、十村(とむら)断獄事件が起きた。隠田をもっていて年貢を納めないのは私利を貧る十村らが邪魔をするからと進言したことから、自ら農政に携わった蔵人は、無実の同士や十村らの投獄を阻止しようとしたが、力及ばず31人を投獄うち19人を流刑にされた。

能登島に流されたといっても、別段悪い事したわけでもないので、その待遇はよかった。

蔵人が能登島に送られた前年は天候不順で大凶作で、救済のため米糠が支給したが、腐りかけておりとても食べられる物ではなかった。

蔵人は自分に支給されたお米を少しずつ貯え、島民たちに分け与えました。

能登島で暮らし始めた年は例年にない猛暑となり、体調を崩して同年天保8(1837)年9月波乱に満ちた生涯を閉じる。享年61歳。

コメント (1)
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