赤松小三郎が暗殺される直前の慶応3年8月、薩摩藩は具体的な武力蜂起の「秘策」を長州藩に明かしていた。
それは島津久光、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀の4人のみが関知する極秘の事項だとも説明された。
井上勝生『日本近現代史①幕末維新』(岩波新書)から、その「秘策」の概要を以下に写す。
「京都御所に藩兵を入れ、討幕派の公家が結集して制圧、会津藩邸と幕兵の陣営を『急襲』し、『焼き払う』。天皇を男山(京都市南部、八幡市)に移した上で、『討将軍』の布告を出す。藩兵3000で大坂城を制圧し、大坂湾の幕府艦隊を『粉砕』する。関東方面では甲府城に『立て籠もる』という壮大な武力蜂起計画だった」
さて、赤松小三郎は薩摩のいわば軍事顧問であった。この奇襲作戦を知りうる立場にあったとは考えられないか。
知りすぎた男として殺されたというのが私の推測であるけれど、ついでに推測すれば桐野利秋の個人的判断による凶行とは思えない。前記の4人のうちの誰かの指示によるものであろう。
井上氏の文章はこう続く。
「翌9月に、薩摩藩と長州藩はあらためて、出兵『契約書』を結び、芸州藩も加わる。薩摩藩が、9月中に武力蜂起して、天皇を奪い、大坂城へ攻め入ることも、再度、予定された。このように薩摩藩の初めの計画は、京都の政変と同時に挙兵するというもので、12月に実際に起こされた王政復古クーデターより、はるかに武力に頼った、まさに討幕の計画であった」
この9月の共同出兵「契約書」は、まぎれもなく討幕の薩長軍事同盟であった。
坂本龍馬の調停した「薩長同盟」が、ここで確然としたものになっているのである。
龍馬とからめると、きりのない話になるから、このあたりでおしまいにしよう。
故赤松小三郎に対して明治の新政府はなにもしなかったが、大正13年に皇太子御成婚贈位内申書に彼の名があげられた。ずっと、たぶんうしろめたく思っていた人間のいたことはたしかだと思われる。そのことを最後に付記しておきたい。
それは島津久光、西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀の4人のみが関知する極秘の事項だとも説明された。
井上勝生『日本近現代史①幕末維新』(岩波新書)から、その「秘策」の概要を以下に写す。
「京都御所に藩兵を入れ、討幕派の公家が結集して制圧、会津藩邸と幕兵の陣営を『急襲』し、『焼き払う』。天皇を男山(京都市南部、八幡市)に移した上で、『討将軍』の布告を出す。藩兵3000で大坂城を制圧し、大坂湾の幕府艦隊を『粉砕』する。関東方面では甲府城に『立て籠もる』という壮大な武力蜂起計画だった」
さて、赤松小三郎は薩摩のいわば軍事顧問であった。この奇襲作戦を知りうる立場にあったとは考えられないか。
知りすぎた男として殺されたというのが私の推測であるけれど、ついでに推測すれば桐野利秋の個人的判断による凶行とは思えない。前記の4人のうちの誰かの指示によるものであろう。
井上氏の文章はこう続く。
「翌9月に、薩摩藩と長州藩はあらためて、出兵『契約書』を結び、芸州藩も加わる。薩摩藩が、9月中に武力蜂起して、天皇を奪い、大坂城へ攻め入ることも、再度、予定された。このように薩摩藩の初めの計画は、京都の政変と同時に挙兵するというもので、12月に実際に起こされた王政復古クーデターより、はるかに武力に頼った、まさに討幕の計画であった」
この9月の共同出兵「契約書」は、まぎれもなく討幕の薩長軍事同盟であった。
坂本龍馬の調停した「薩長同盟」が、ここで確然としたものになっているのである。
龍馬とからめると、きりのない話になるから、このあたりでおしまいにしよう。
故赤松小三郎に対して明治の新政府はなにもしなかったが、大正13年に皇太子御成婚贈位内申書に彼の名があげられた。ずっと、たぶんうしろめたく思っていた人間のいたことはたしかだと思われる。そのことを最後に付記しておきたい。
最近、江宮隆之氏が『龍馬の影 -悲劇の志士・赤松小三郎』という小説を出版したのを契機に、私のブログでも赤松小三郎について4回にわたって再論し、その中で貴ブログの記事も引用させていただきました。私の場合、素人談義の域を出ていないので恐縮ですが、引用させていただいたことをご報告いたします。以下です。よろしくお願い申し上げます。
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/040e4438b63d439937c9760345d199df
私に関しては、いささか気恥ずかしいご紹介にあずかり、赤面しております。いま、ちょうど小説の上梓話が進行していますが、どうなりますことやら。ともあれ今後ともよろしくお願いいたします。