戦時国債発行 米軍機からビラ散布 |
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大東亜戦争も1年数か月は日本軍も勢いがあったが、戦線の拡大に伴い補給線が細り、弾薬 食料が最前線へ回らなくなってきた、食料が不足してくると気力も戦意も萎えてしまう、昔からの譬え 腹が減っては戦(いくさ)が出来ぬ 当然の事だ。 その間アメリカは経済力 物資力を駆使して空母 艦船 航空機に注力して、日本のゼロ戦 隼より性能のいい航空機を量産した。 昭和18年に入ると拡大した各戦線で劣勢が目立ち、各戦線で押し返され退却が目立ち始めた。 ラジオのニュースも戦果を収めた時は「軍艦マーチ」だったが、戦況も押され気味になり、撤退 玉砕のニュースの前は「海ゆかば」に変わった。
戦争はお金が掛かる、政府が戦時国債を発行、国民に買わせ資金を調達した。 |
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戦時中発行された戦時債券、当時平均的勤め人の月給は70~80円 100円の月給を貰う人は高級取りと言われた、10円の国債は高額だ。 昭和18年頃米1升53銭ほど。 当時紙巻たばこは金鵄10本入り15銭 光10本入り30銭 鳳翼20本入り50銭 吸い口付き煙草「敷島」「朝日」等もあった、高級たばこ(チェリー)英語廃止で桜になった、10本入り40銭、キセルで吸う刻みたばこ「みのり」20銭「桔梗」25銭だったか当時煙管で吸う人も多かった。 |
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大東亜戦争軍事費調達の割引国庫債券、当時10円は結構高額だった |
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利子付きこんな半端な国債もあった、戦いに勝つため皆協力した |
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昭和18年にはB25、5機ばかりが初めて帝都を空襲した、爆弾を少量投下して退散した、被害は軽微だった、だがこれを機会に時々空襲が有った。 |
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当時の50銭銀貨、近くの富士神社の豆まきの時、豆 餅に交じって1銭 5銭 10銭どうかすると50銭銀貨が混じっている、子供が50銭銀貨を拾おうものなら鬼の首を取ったようなもの。 友達と都電に乗り上野公園の不忍池へボートを漕ぎに行って遊び、帰り天丼を食べられた。 映画館は子供5銭だったか7銭だったか、嵐 寛十郎の「鞍馬天狗」を見て心躍らせていた時代。 戦況も敗色を見せ始めたが、国内はまだ左程深刻な状況ではなかった。
小生生まれる前に出来た50銭銀貨、当時最高額紙幣は100円札、50円札はなくて10円紙幣があったような気がする。
だが不確かな記憶だ
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空襲もさしたる被害もなく、回数が重なるが内部攪乱のため宣伝ビラを大量に撒くようになった、政府はビラを拾って読ませぬため、ビラに毒薬が塗ってあり、手に触れぬよう注意して拾い燃やすよう指示していた。
危険な場所にある家を住民が必死に支えているのを、軍が足を引っ張っている図柄、戦争を早くやめなさい、アメリカが幸福を与えますよといった意味か。 |
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軍閥が国民を不幸にしている、軍閥を解体して国家を救えと宣伝している。当時アメリカのビラにこんな奇麗な日本語が印刷できるんだと子供心でびっくりした。
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