いつか海外暮らし!

旅行が好きで若い頃は国内旅行、今は海外旅行、いつか海外で暮らしたい。

帰国 24・25日目

2006年02月28日 | 東北タイ&ラオス旅行
7日振りにやっと下痢が止まった。
気力も食欲も無くす、強烈な食中りであった。ラオス旅行の疲れが影響したのか?
チェックアウト時間12時までホテルでゆっくりして、ソンテウでチェンマイ空港へ行った。
まだ時間が早かったが通路側シートをお願いしてチェックインした。
搭乗が始まり、乗込むと私の座席にすでに西洋人の女性が座っており、窓側席に父親が座っていた。その娘は3人掛けの真中の座席と変わってくれと言う。私は、大変不愉快になり、断わった。
娘に惨めな思いをさせた父親が窓側に座っている。バンコクまでの1時間のフライトが不愉快であった。
ドンムアン空港の国内線に着き、シャトルバスでターミナス1に向った。
国際線の手荷物の預かりカウンターに荷物を預け、日本レストランに行った。
ここの日本食はまともである。冷麺とビールを飲んだ。
ドンムアン国際空港は、私にとって最後の利用になるだろう。スワンナプーム新国際空港の開港が6月29日になっている。予定通り開港するか???
22時5分発関空行きSQ974で大阪に向った。
朝早く関空に着き、いつもは滞在先国名と健康状態を記入する黄色紙を渡すだけの検疫所で、1週間下痢が止まらなかった事を申告すると別室に通され検便検査器(つまよう枝の様な棒状)を渡された。個室に入りお尻に突っ込んで容器に戻し、係官に渡した。
検便検査結果は4日で判明するので、コレラ菌や赤痢菌が検出された場合は法律に基づき連絡するが、一般的な食中毒菌の場合は連絡しないと言われた。連絡が無くても結果が知りたければ電話をして下さいとの事。
食中毒だと思うが念の為検査してもらって好かったと思う。
大阪はまだ大変寒かった。風邪を引かない様に注意しよう。
25日間の旅も終わった。

チェンマイ滞在 23日目

2006年02月27日 | 東北タイ&ラオス旅行
まだ、下痢をしているが気力が出て来た。
昼、マクドナルドでハンバーガーを食べた。数日振りに美味い物を食べた気がする。
バンコクへVIPバスで10時間掛かり、今の体力ではきついので飛行機と決めた。ホテル近所の旅行代理店でバンコク行きチケットを購入した。明日のタイ国際航空14時5分発バンコク行きB2770(¥8500)であった。
夜、チェンマイプラザ近くの日本レストランで鍋焼きうどんとビールを取った。この日本レストランも関東風で、つゆが関東独特の濃い口醤油でだしを取っているのか疑わしい。半分食べただけで残した。これは日本食か?
それに引換え、昼食べたマクドナルドのハンバーガーは、万国共通で味が標準化されている。



チェンマイ滞在 21~22日目

2006年02月26日 | 東北タイ&ラオス旅行
お腹の具合も一進一退である。食欲は相変わらず無い。
テレビを見たり、インターネットカフェに行ったりして過ごした。
快方に向っているので、もう良いだろうとタイマッサージを受けたら、明くる日に下痢が悪化した。
明後日の夜発の飛行機で日本に帰らなければならない。
明日にはバンコクに行かなければ・・・・。

チェンマイ滞在 20日目

2006年02月24日 | 東北タイ&ラオス旅行
昨日は夕方から寝てしまい、今日は6時に起きてしまった。
今日もお腹を下している。
屋台でお粥を食べた後、ホテルでテレビを見て過ごした。番組は衛星テレビのNHKと日本語放送で中国語字幕スーパーの番組がある。
食欲が無い、日本食なら食べられるだろうとチェンマイプラザ近辺の日本レストランに行った。
夕食にふろふき大根ときつねうどん、ビールを飲んだ。うどんは関東風で、つゆが関東独特の濃い口醤油で一口も飲めない、うどんだけを食べた。

チェンマイ へ 19日目

2006年02月23日 | 東北タイ&ラオス旅行
朝、トイレに行くとお腹を下していた。きつい下痢である。
ラオスの11泊12日旅行の疲れが出たのか。
お粥を食べ様と思いGHを出た。バスターミナルでチェンマイ行きバスチケットを購入した。お腹が不安なのでトイレ付きの1等バスにした。9時55分発でB169(¥520)であった。
バスターミナル横の食堂でお粥を食べた。
お腹の具合も大丈夫な様でGHをチェックアウトした。
9時半ごろバスターミナルでバスを待っていると50才代の日本女性が公衆電話で電話が掛からないで困っている様だった。若いタイ女性が親切に助けている。ダメの様で、タイ女性の自分の携帯電話で掛けていた。ここでは、困っている人を見かけると若い人が必ず助けてくれる。去年私も経験した事がある。
バスに乗込み、「すいません」と日本語で言って、窓側の座席に座った。私が日本人である事に彼らは気付いた。先ほどの日本人女性グループの3人であった。
3人は大学の先生と卒業真時下の学生で、チェンラーイ郊外にあるさくらプロジェクトに行って来たそうです。
今はチェンラーイからチェンマイに向っているが、去年は、逆コースでチェンマイからチェンラーイに移動した。まったく別ルートを走っている様である。
田植えの時期にタイを旅行するのは初めてで、田植えを終えた田んぼが青々して、こんなに綺麗なのかと感動した。
チェンマイのアーケードバスターミナルに13時20分に着いた。取り合えず、ビールを飲み、バンコク行きVIPバスの時刻をメモした。
バスターミナルのエントランスで客を降ろしたソンテウを拾ろい市内に向った。
ナイトバザール近くのタワンコートに泊まった。1泊B600(¥1800)
夕方から体調が悪くなり寝込んだ。疲れと下痢が原因だろう。

フアイサーイ へ 18日目

2006年02月22日 | 東北タイ&ラオス旅行
今日は、メコン川中継地パークベンから国境の町フアイサーイへスローボートで行き、国境を越えタイ国に入る。国境の町チェンコーンかチェンマイで泊まる。
まだ薄明るい時に散歩に出た、GH前の急な道を上って行く時少数民族とすれちがった、数軒のGHを過ぎると市場があり、道脇に採りたての野菜を紙に載せ地べたに並べていた。カメラを忘れて写真が撮れなくて残念だった。
GH地下にレストランがあり、メコン川の眺めが良い。お粥を食べながらメコン川を見ていた。

フアイサーイ行きスローボートの改札が8時に始まるのでGHをチェックアウトした。
チケット売場が見当たらないのでチケット無しで乗場に向った。
船着場を見下ろすとスローボートが多数停泊しいるので、フアイサーイ行きのスローボートがどれか現地の人に聞いた。そのスローボートに向って階段を下り、乗込む前に再度フアイサーイ行きボートか確認して乗込んだ。
検札が回って来てチケットを購入した。85000kip(¥995)
なかなか出発しない、やっと9時30分にフアイサーイへ向け出発した。
しかし、フアイサーイでなくルアンプラバーンに向った。
私は、あわてた。運転手に向って引き返す様に言ったら、周りからブーインが起こった。
ボートに乗込む時フアイサーイ行きか確認した相手が運転手であったので、私が「あなたが、フアイサーイ行きと言った」と言うと、運転手は「英語が分からない」と言いやがった。フアイサーイとルアンプラバーンを間違えるか?
川幅は狭いので戻れないと言っている。それでも荷物を持って運転手の後方に立ち続けた。
女性スタッフが運賃85000kipを返しに来た、金額を確認したら10000kip不足、抜け目のないスタッフの前で声を出して札を数え、不足分を取戻した。
岸の砂地にボートが着いた、私が降りかけると多くの乗客に「Good luck」と言われた。運転手が泊められているボートを指差してボートでパークベンまで行けと言っている。
周りにひと気が無い、土手上に民家が見えるので荷物を置き、民家に向った。
奥さんと子供、おばちゃんが迎えてくれ、私がスローボートから降りるところを見ていたらしい。
私は「フアイサーイ、パークベン」とだけ言った。歩いてパークベンまで行けと言っている。パークベンが遠くに見えているので確かに歩けない距離ではない。たぶん2~3kmほどだろう。
しかし、「ボート」を出してくれと言った。話が通じているのか? ・・・・? ・・・・? 
おばちゃんが村の奥に消え、青年が、起き抜けの顔で現れた。起こして悪いな!と言いたかったがラオス語が話せない。
青年の後に付き川岸に行った、彼は川岸に停泊している大型船に向って何か言っていた。そこに小さな舟が来た。手漕ぎ舟にスクリューが付いている様な舟で、後から舵取り男性、赤ん坊を抱いた女性、次に男性が乗っていた。
その小さな舟に乗せてもらう事になった。女性の前に乗込んだ私は座る向きを変え様としたが、舟は不安定で転覆しそうであった。
舟に座るとこれ以上ないと思われるぐらいメコン川水面に近付いた。
舟は流れをさかのぼってパークベンに向った。途中、流れの少し急なところで舟は止まりそうになり、辛うじて前進した。大型ボートが通ったら航跡の波で舟が転覆しそうで、通らない事を祈った。
舟はパークベンの船着場の少し手前に無事に着いた。お礼に30000kip渡した。
土手を上り切ると民家があった。メコン川からは森しか見えなかったが、家が続いている。
5分ほど歩いてパークベンのチケット売場に着いた。朝チケット売場が分からずチケット無しで乗船したのが間違いのもとであったが、西洋人2人と大勢の現地人がたむろし、ソンテウが泊まっている板張りの粗末な小屋がチケット売場であった。

11時で本日予定が振り出しに戻った。
西洋人2人はチケット売場でスピードボートの事を尋ねていた。「フアイサーイまで運賃はUS$17で6人集まれば出発する。」と横で私も聞いた。
西洋人2人はカナダ人で熟年夫婦?女性の方は40代で若く夫婦と言うよりも恋人同士という感じである。
まだ、私を入れて3人であったが、12時ごろに現地人の3人連れが来て最低人数が集まったので、今日中にフアイサーイに行ける事になった。
スピードボート乗場に行く様に言われ、急な土手を下って行った。そこは食堂も兼ねていた。
静かな山間に爆音が響いてきた、ルアンプラバーンからのスピードボートであった。フアイサーイまで行く途中で昼食兼休憩でこの食堂を利用している。スピードボートは次々と到着し6台ほどになった。
スピードボートは、トヨタの16バルブのエンジンを搭載し8人乗りである。

ライフジャケットが配られ取付けて待ったが、いっこうに出発しない、「5分待て燃料を入れて来る。」と言って運転手は出て行った。
13時に出発した。乗客は2人増えて8人になっていた。
爆音を響かせ、浅瀬も気にせず突っ込んで行く、波上ではボートの底から突き上げる衝撃が伝わる。
浅瀬の波、流れによる波&風による波、鏡の様な水面とメコン川の水面は次々と変化していく、スピードボートは時速約60~70kmで突っ走っている。
曲がる時、減速するが競艇ボートの様に横滑りしながら曲がって行く。恐ろしい!
途中、砂地にボートが着いた。何が起こったのか? 運転手はスクリューを取替え始めた。スクリューが割れていた。その他にもエンジンが止まり、ボートが流された事が2度あった。大丈夫か!
途中で男性2人が降りた。まわりに何も無い所で山仕事にでも行く感じであった。
私の前に座っていた2人がいなくなるとボートの水しぶきが腕にかかった。ボートの水しぶきは、波のある水面では後方向にしぶきが飛ぶが、鏡面の水面では、真横に飛ぶ。真横に飛ぶしぶきは見ていて綺麗であった。
検問所の様な所で休憩した。運転手は書類を提出していた。
谷筋を流れていたメコン川は、まわりの山が低くなり先が開けて来ると川幅も広くなった。
フアイサーイのスピードボート船着場へ15時45分頃に着いた。パークベンから2時間45分かかった事になる。
トゥクトゥクで最後の料金交渉をした。10000kipと言われたがカナダ人夫婦が2人で10000kipと言うとOKとなった、「私も」と言って5000kip(¥60)になった。交渉は1人より数人でするのが良い。
トゥクトゥクで10分ほどで着き、坂道をメコン川に下って行った。左側にイミグレーションがあり、出国手続きを済ませた。
両替所が閉まっていたので、向かいの食堂で残ったラオスキープをタイバーツに両替をお願いすると両替してくれた。それも銀行レートで有難う。
川岸に止まっている渡す船に乗り、料金を払うとお釣りをラオスキープ5000kipで帰って来た。kipを記念に持ち帰る事にした。
渡し舟でチェンコーンに着いた。メコン川岸に車が入れる様に土手に斜スロープを切りっている。それを上がって行くと右手にイミグレーションがあり、入国手続きを取った。
手続きが終わったのが14時50分で、最終のチェンラーイ行きバスは17時との事で慌ててカナダ人夫婦とトゥクトゥクでバスターミナルに向った。
そこはバス停で横にコンビニがあった。アイスクリームを買い食べているとカナダ人夫婦は大瓶ビールを買って来て無事ラオス旅行が終了した事を祝ってカンパイしている様だった。チェンラーイ行きバスは3等バスでB90(¥275)であった。道路は良いしタイ国は先進国である事を痛感した。

19時45分チェンラーイのバスターミナルに着いた。昨年泊まったゲストハウスGHに行きチェックインした。パークベンのGHを出て12時間の長い長い移動であった。
ビールが飲みたくて、急いでシャワーを浴びて食事に出た。ナイトバザールのレストランでトムヤムクンとシンハービアーを取った。トムヤムクンのプリプリのエビが最後の一匹だけグニャーとしたので吐き出した。
ナイトバザールをぶらぶら歩きしてGHに戻った。

パークベン へ 17日目

2006年02月21日 | 東北タイ&ラオス旅行
今日は、タイ国との国境の町フアイサーイへ一泊二日のスローボートの船旅に出る。途中パークベンという中継地で一泊する。
7時45分、ゲストハウスGHをチェックアウトした。ラオスのGHは、後払いになっていて、宿泊費、ビール&食費をまとめて請求される。請求された金額が心積もりしていた金額よりUS$3ほど安かった。連泊したので宿泊費が安くなったのか?
トゥクトゥクでスローボート乗場に向った。運賃15000kip(¥175)
町の中心地の郵便局交差点をメコン川方向に行くと朝市が出ていた。メコン川沿いの朝市を通り、スローボート乗場に着いた。
遮断機ゲートをくぐりスロープを下る。船着場を見るとスローボートが多数停泊しいるので、パークベン行きのスローボートがどれか現地の人に聞いた。そのスローボートに向って階段を下り、乗込む前に再度パークベン行きボートか確認して乗込んだ。
荷物置場に荷物を置き後方に行くと、粗末な木製の座席が並び、その後方に自動車用2人掛け座席が並んでいた。当然自動車用座席に座った。この座席は日本製であった。製造物責任(PL)法に関連して製品の安全性確保のための表示板が日本語で書かれ貼り付けられていた。
西洋人シニア夫婦やマットレスを運ぶ人夫と買出しのおばちゃん逹が急な階段を下りる。
スローボートから急勾配の川岸

スローボートは、15分遅れで8時45分に出発した。
ルアンプラバーンからパークベンまでスローボートでメコン川を遡上するには8~9時間掛かる。
まず、東に向かっていたメコン川は大きくUターンーし西に向きを変える。
この辺りの右岸にパークウー洞窟があった。

メコン川は西に向かい、時々急激に回り込む。そのポイントと地図、太陽の位置で現在地を見付け、残り行程を考えていた。
乗客数は約60人、座席から後部は、床席で足を伸ばして座っている。
西洋人(欧米人)シニア夫婦が思ったより多い。日本の団塊の世代が、もうすぐ退職するが、バックッパックを担ぎ、このメコン川を旅行する日本人夫婦が現れるだろうか???
スローボートではビールやソフトドリンクを売っていた。大瓶のビアラーオをらっぱ飲みをしているのを見て、私も飲みたかったが辛抱した。
バスや船での長時間移動中にはビールを飲まない事にしている。トイレと乗り物酔いを避ける為である。
移動中の昼食は、バナナ、クッキー&水が多い。横で西洋人が缶詰を開けて食べていた。今の缶詰は、プルトップ式で缶きりがなくても開けられるので便利である。次回には缶詰を使ってみよう。
メコン川が西に向ってから、川幅は狭くなり最も狭い場所では100mほどである。浅瀬を避けてスローボートは進む。

メコン川に流れ込む小さな川が多数ある。その小さな川の中には、この乾期にも関わらず涸れずに流れている川がある。涸れない川の近くに必ず村や人家がある。

17時ごろ右岸に停泊した。パークベンに着いたのかと思ったが違った。川遊びをしていた子供たちが荷物運びを手伝いに来た、ボートから降ろされたマットレスを運んでいた。
日が暮れ掛けているのに、まだ、パークベンに着かない。

18時15分にスローボートはパークベンに着いた。土手の急な階段を休憩しながら上った。シニア夫婦も休憩しながら上っていた。
船着場近くのサリカ・ビラに泊まった。宿泊費US$10、きれいなGHでした。

ルアンプラバーン滞在 16日目

2006年02月20日 | 東北タイ&ラオス旅行
深夜に起こる胃痛に悩まされていたのが嘘の様にパークセー以来胃痛が起こっていない。薬を飲まずに治った。
朝、フレンチトーストとコーヒーを食べていると、西洋人シニアの夫婦やシニアのお母さんと娘の親子が観光に出かけて行った。
今日はお寺をまわる事にして、9時過ぎにGHを出た。
すいか寺近くのカーン川沿いにあるGHから中心地の郵便局のある交差点まで15分かかる。シーサワンウォン通りのワット・マイに入った。昨日から何回か前を通っていたが、改めてよく見ると屋根が何重にも重なっているのが特徴のルアンプラバーン様式の寺院だった。
次に、ファイサーイ行きスローボート乗場に向った。ワット・マイと王宮博物館との間の道を行くとメコン川に出る、それを右に曲がり100mほどで乗場がある。スローボートが停泊している船着場へは、遮断ゲートをくぐりスロープを下る。遮断ゲートの横に小屋があり、そこがチケット売場である。明日8時30分発のパークベン行きチケットを購入した。今買うのかと言われ、ノートを渡され、名前、国籍などを記入し、85000kip(¥995)を払った。
次にワット・タートルアンに向った。メコン川沿いの道路を15分ほど歩くと道はメコン川から離れ、広い草原が見えて来る。この広場の奥にワット・タートルアンがあった。豪華さのないシンプルな寺院である。
アベックがバイクの練習をしている広い草原を横切りワット・パバート・タイに向った。
ワット・パバート・タイへの導入路が良く分からない。交差点を50mほど行ったところを右に曲がった奥に寺院はあった。門が閉まり本日休みであった。外から寺院を見ると、ベトナム風寺院とガイドブックに書いている様にルアンプラバーンの他の寺院と様式は異なっていた。
シーサワンウォン通りに向ってぶらぶら歩いていると、バイクとトックトックの衝突事故があった。軽傷のバイクの運転手をトックトックに乗せて病院に運んでいた。ラオス滞在10日間で事故を2回目撃した。バイク事故の多さを想像させられる。
ぶらぶら歩きを続け、ナンプ(噴水)付近の寺院を拝観し、郵便局で土産にワット・プーや仏像の切手を買った。
シーサワンウォン通りのレストランでビールとサンドイッチを食べた。
その後、GHに戻る為カーン川に出たところで、カーン川とメコン川の合流地点を見たくなり下流へ向った。川原に数個のパラソルが並び海水浴の様になっていた。
ルアンプラバーンの街中を歩き疲れてGHに戻り、ビールを飲んだ。これまでコップを出して貰えなかったので大瓶のビールをらっぱ飲みしていたが、あなたは特別とコップを出してくれた。何が特別や!
小説を読んでいて、寝てしまった。
夕方目覚めて夕食に出た。すいか寺の通り沿いのレストランに入り、ビールを飲みながら通りを見ていた。
背中に長い物を背負ったバイクが時々通り、あれは何だろうと思いながら食事を終えた。
帰り道、たまたまバイクが止まり、長い物を背負っていたので、「これは何ですか」と英語で声をかけた。すると日本語で「日本の方ですか」と返って来た。それは、バトミントンのラケットでこの辺りにはコートが多いとの事であった。相手は日本人であった。政府関係の仕事で5年間ラオスに滞在しているそうです。

ルアンプラバーン滞在 15日目

2006年02月19日 | 東北タイ&ラオス旅行
7時に起き、散歩に出る。メコン川の支流であるカーン川に架かる橋を渡った。歩道は橋の鉄骨の外側にはみ出して取付けらているので、見通しが効き写真を撮るのに最高であった。
コーヒー&フランスパンの朝食後、ゲストハウスを9時ごろ出て、町並みを見ながら王宮博物館に向かった。白バイとパトカーが誘導する車が数台、王宮博物館前で止まった。アオザイを着た女性が居る事からベトナムからの視察であろう。ベトナム視察者より前で見学していたが追い抜かされた、もっとゆっくり見学しろ。
この時期、視察が多いのか私が会ったのは3件目である。ベトナムの小役人が遊びに来てるのだろう。
ラオスとベトナムとの関係、1893年(日本では明治26年)シャム(現タイ国)領の一部としてのラーンサーン3王国(現ラオス)を編入したフランス領インドシナ連邦は、ラオス語の出版を制限し、行政保護官としてベトナム人を置いた。ラオス人のアイデンティティは軽視された。らしい、ガイドブックに書いてあった。
プーシーに登った。王宮博物館の向かいにある長い階段を上るとプーシーの頂上に着く。
メコン川、カーン川&ルアンプラバーン町並みが一望できる。写真
頂上から空港が見える方向にも階段が続いており、通り抜けられるか売店で聞くと通り抜けられるとの事で下った。この道はガイドブック歩き方に乗っていない。
途中お寺を抜け、カーン川沿いの道路に出た。
プーシーに登り疲れてしまい、また暑くなって来たので3時間程度の散策でゲストハウスに戻った。
ビールと焼きそばを食べていると、30歳前後の日本男性に話かけられた。昨日のVIPバスで見た顔であった。
以前、彼は定職がなくフリーターで好きな時に海外旅行をしていたが、今はイベントの仕事をしているとの事で10日間の休暇が取れたので今回ラオスに来たと言っていた。
まだ、海外旅行とフリーターに未練がある様であった。「正月休暇、5月連休&盆休みの海外旅行を楽しみに仕事に励み海外旅行するのも、それはそれでまた良いものだ。」と私は話した。
また、彼は海外で働く事も考えている様なので、「日本で雇われて海外で働くのであれば給料も良いが、現地雇いであれば現地人よりは給料が良い程度で貯金も出来ないし、日本へ帰って来た時生活に困る。」と私が言うと独身であれば問題無いと彼は言っていた。
私が厳しい現実を言ったからか、彼はそろそろ行きますと言って席を立ってしまった。言わなくてもいい事を言ってしまった。
夕方、インターネットをした後、シーサワンウォン通りをぶらぶら歩き、サッカリン通りまで行った。メコン川側に入ったところにあるワット・シェントーンに拝観した。境内から急な階段を下りるとメコン川に出る。
メコン川沿いに歩き、オープンレストランで焼き飯とビールを飲みながらサンセットを待った。
間もなく、メコン川向かいに沈む真っ赤な夕日が綺麗であった。

ルアンプラバーン へ 14日目

2006年02月18日 | 東北タイ&ラオス旅行
今日はルアンプラバーンに向う。
現在、ルアンパバーンと言うが、昔の名称であるルアンプラバーンの方がなじみ深いのでルアンプラバーンと表記する。
GHの朝食は、7時から始まるのでレストランに7時に行ったが、担当者がまだ来ていない。
バックパックをパッキング後、フロントで宿泊費US$30を支払った。しかし、宿泊費一泊US$16のはずがUS$15になっていた。連泊した為安くなったのか? 
チェックアウトを終えてレストランに行った。客が2人待っていたが、まだ担当者が来てない様だ。
7時30分になったのでバスターミナルに向かう事にした。
GH前で客待ちしていたソンテウに運賃を聞くと「5ダラー」US$5と言っている。「5サウザント kip」5000kipと言い返した。すると価格表を提示された。運ちゃんが勝手に作成した価格表であり無視して価格交渉してUS$3まで下がり、まだ高いがOKした。
ホテル、バス&レストラン等価格の決まっているものは問題無いが、ソンテウは交渉制で価格交渉に疲れる。タイ国では、価格交渉も楽しいが、ラオスは、ぎすぎすとして親しみ難く疲れる。
10分ほどでT2バスターミナルに着いた。
モンキーバナナと水を買い、VIPバスに乗込んだ。VIPは名前だけでエアコン、トイレ付き、座席は普通の1等バスである。と言ってもラオスで乗ったバスの中で最もましであったが。
定刻の8時にバスはビエンチャンを発ち、ルアンプラバーンに向った。
まわりに畑や田んぼが広がり、国道13号線を北上する。山を上り、下り、湖の端を渡り平地を走り出すと岩山がそびえるバンビエンに着いた。ビエンチャンから約3時間かかった。
ラクダの2つのコブの様な岩山を過ぎた頃から本格的な山岳地帯が始まった。
大型トラックがあえぐように坂道を上がって行く、その後についたバスは、タイミングを計るが、なかなか追越す事ができない。
トラックは、㈱○○○運送と表記が残っている日本製中古大型トラックが多く、右ハンドルのままで走っている場合もある。左ハンドル車もあり、改造しているのか?
バスは、左ハンドル&右乗車口の韓国製中古が多い、このバスは起亜自動車であった。
途中、昼食休憩があり、バスチケットを提示するとぶっ掛けご飯や麺類が食べられた。私はバナナを食べていたので軽く麺のフーにした。
広い駐車場、レストランとトイレがあり、まさしくドライブインである。
国道13号線は、尾根から尾根へと尾根伝いに延び、雄大なラオスの山並みが見渡せる。
大自然の風景と言いたいが、伐採され尽くした山並みが続く。しかし、荒涼とした枯れ山ではない、原生林はないが潅木で一様は青々としている。
尾根伝いの道路脇に少数民族の貧しい家が並ぶ。竹?で編んだ模様が珍しい。
バスが止まり、運転手と車掌が降りていった。
乗客も降り出したので私もバスを降りた。ラオス女性数名が乗り物酔いで気分が悪そうであった。
オーバーヒートでバスは止まったのであった。車掌とマシンガンをもった警備員がバスの後から水を補給していた。(写真)
マシンガンをもった警備員が同乗しているとは気付かなかった。
最近では2003年2月にトラックバスが襲われ11人が射殺される事件が起きている。その為の警備員だった。
入り組んだ尾根、深い谷とがけ崩れ痕など変化のある風景は飽きる事無く楽しんでいると、一気に下っていき川と森の盆地が見えて来た。それがルアンプラバーンであった。
16時50分にルアンプラバーンのバスターミナルに着いた。ビエンチャンから9時間かかった事になる。
日本語のホテル説明ファイルを見せて客引きがいたのでそのゲストハウスGHにした。
コールドリバーGHはファン、ホットシャワー付きできれいな板張り床の部屋でUS$9であった。