実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

加茂町・「大津事件」(1891年)と北ケ市市太郎

2012年12月05日 | 日記

隊員NO.5あやかで~す(^_^)v

11月27日(火)の課題研究の時間に、加茂町にある加茂神社へ行って調べた北ケ市市太郎のこと

についてレポートします。

加茂神社に「北ケ市市太郎」っていう人の標柱が立っています。

みなさん、加茂町出身の北ケ市市太郎をご存じですか。この北ケ市市太郎は、

まだまだ日本がアジアの小国にすぎなかった明治の中頃に起きた大津事件という大事件に

かかわった人物で、ある意味で国の危機を救ったといわれている人です。

まずは「大津事件」についてご紹介させていただきます。

大津事件」は、1891(明治24)年5月11日に日本を訪問中のロシア帝国の皇太子・ニコライ

(のちに帝政ロシア最後の皇帝となったニコライ2世)が、いまの滋賀県大津市で警備にあたっていた

巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した、暗殺未遂事件のことです。またこの事件は、

大審院長(いまの最高裁判所長官)・児島惟謙が行政の干渉から司法の独立を確立し、

わが国において三権分立の意義を広めた近代史上とても重要な事件として知られています。

ロシアのニコライ皇太子は、この年、シベリア鉄道の極東地区起工式典に出席するため、ウラジオストク

に向かう途中、日本を訪問したのでした。当時の日本は初めての憲法が制定され、国会が開催された

ばかりの発展途上国でしたので、ロシアのような大国の皇族を迎えることは、まさに国をあげての一大

ビックイベントでした。

4月、甥であるギリシャの王子とともに日本にやってきたニコライは、長崎、鹿児島と観光し、

5月9日、京都に到着して名門だった常盤ホテル(現在の京都ホテルオークラ)に宿泊しました。

ニコライ一行は京都で人びとから大歓迎を受けたといいます。駅前にはアーチが立てられ、

通行するすべての道にロシアとギリシャと日本の国旗が並び、ちょうちんがつけられ、季節外れの

大文字焼き(五山送り火)もおこなわれたといいます。

5月11日には、ニコライの希望により、一行は琵琶湖へ船遊びに行くことになります。

常磐ホテルからは、約40両の人力車が一列となり、180mくらいの大行列をつくって大津を目指しました。

いくつか観光地をめぐり、大津にあった県庁で昼食をとった後、事件が起きました。

人力車で移動中のニコライ皇太子を、突然、道路脇で警備していた警官・津田三蔵が飛び出してきて、

サーベルで斬りつけたのです。

皇太子は頭部に9cmほどの切り傷を負いましたが、なんとか命は取り留めました。

しかし日本政府にとってはまさにとんでもない大事件となりました。

電報により、急を知った明治天皇は、事件の翌日の早朝、自らが汽車で京都へ行き、ニコライの宿舎に

お見舞いをしました。また、日本国内では、「大国ロシアが事件の報復のため、日本に攻めてくる」

という噂が流れ、人びとは恐怖におびえる事態となりました。全国の学校が休校となり、

多くの神社や寺院ではニコライの無事を祈る祈祷が行われたといいます。

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実は、加茂町出身の北ケ市市太郎は、この「大津事件」でニコライ皇太子の命の恩人となった人

なのです。このとき、犯人の津田三蔵に頭部を傷つけられたニコライは人力車から飛び降り

脇の路地へ逃げ込みましたが、津田はなおもニコライを追い、斬りつけようとします。

しかしその時、一人の人力車人夫が、津田の両足を引き倒し、もう一人の人夫が、津田の落とした

サーベルで津田の首を切りつけたことで、ニコライの命が助かります。

北ケ市市太郎は、津田の落としたサーベルをとっさの判断で手にし、津田の逮捕に尽力した人物

だったのです。この活躍により、北ケ市市太郎は一躍「時の人」になります。

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