隊員NO.5あやかで~す(^_^)v
12月11日(火)の課題研究の時間に、「加賀の一向一揆」について勉強したことをご報告します。
わが国において、民衆が自分たちの権利を拡大させようとする動きは、南北朝時代(14世紀中頃)に
国人(土豪)一揆として始まりました。それが一般大衆のレベルにまで発展したのが、1428年の
正長の土一揆以降だといわれます。でも、この土一揆は人びとが武力で年貢の減免や徳政(借金帳消し)を
もとめたまだまだ散発的な行動にすぎず、さほど成果も上がりませんでした。そのような民衆の一揆を
一つの信仰の力で大きくまとめあげ、形にする役割を果たしたのが、蓮如でした。
蓮如の命がけの布教の成果として、1488年加賀の国はついに「百姓の持ちたる国」になります。
わが国の歴史において、団結した百姓たちが大名という権力者を倒したことも、そしていわゆる自治国を
約100年にわたって維持したことも、「加賀の一向一揆」以外にはありません。
だから、「加賀の一向一揆」というものは、日本の歴史上きわめて珍しい例だといえますし、
加賀の人たちを一つにまとめあげた蓮如の功績が、とてもすごいものだったことが分かります。
ところでみなさん、この蓮如が吉崎御坊にいたのは、どのくらいの期間だと思われますか?
実は、1471年から74年までのわずか4年間にすぎなかったのです。それでは吉崎を退去し
近畿地方にいた蓮如は、その後どうやって加賀の人びとをまとめていったのでしょうか?
ここで登場するのが、昨日お話ししました蓮如の子どもたちです。蓮如は3人の子どもを加賀に残し、
その3人に加賀の地域をまとめさせ、教えを伝えるという強固なしくみを組織化させていたのでした。
そしてその3人の子どもが、三男・蓮綱(れんこう)、四男・蓮誓(れんせい)、七男蓮悟(れんご)でした。
3人はそれぞれ小松の波佐谷松岡(しょうこう)寺、加賀の山田光教寺、金沢の若松本泉寺にいて、
「百姓の持ちたる国」をうまく運営していったのでした。なおこの3つのお寺を
「加州三ヵ寺」といいます。
加賀の国では、きっと他の国に比べて年貢が安かったに違いありません。ですから、お隣の越前・
能登・越中などでは、「わしらも加賀のように百姓の国を作りたい」と願う門徒たちが、守護大名を
倒そうと繰り返したたかいを挑むようになります。
蓮如は1499(明応8)年春に山科本願寺で亡くなります。85歳でした。しかし蓮如亡き後も、
加賀の国は、「加州三ヵ寺」を中心に、「百姓の持ちたる国」の力を保ち、1500年代前半には
ピークを迎えます。しかし同時に「加賀の一向一揆」の存在は、加賀国周辺の守護大名たちに
警戒されるようになります。とくに越前の朝倉氏は一向一揆とはげしく敵対することになりました。
(おまけ)
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