実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

大小一揆(1531年)・地方分権か?それとも中央集権か?

2012年12月28日 | 日記

隊員NO.2りかで~す(^_^)v

課題研究の時間に「加賀の一向一揆」について、家山勉先生からお話を伺いました。

←「百姓の持ちたる国」ってどんな時代?

加賀の国が「百姓の持ちたる国」といわれた期間とは、一向一揆が守護大名・富樫政親を倒した

1488年から、織田信長によって鳥越城が陥落し、3000人の人たちが皆殺しされた1582年までの

約100年間です。そして百姓の持ちたる国」がある意味でもっともピークを迎えていたのが

1500年代の前半でした。

←蓮如関係略系図

このころの加賀国は、蓮如の三男・蓮綱(れんこう)の波佐谷松岡(しょうこう)寺、四男・蓮誓(れんせい)の

山田光教寺、七男蓮悟(れんご)の若松本泉寺という3つのお寺【加州三ヵ寺】を中心に、人びとが結束し、

中央にいる荘園領主からの負担をはねのけるという体制ができていました。今風に言えば「地方分権」が

確立していた時代だったといえます。(山田光教寺は今の加賀市山田町西山田にありました!

しかし、この百姓の持ちたる国の体制に変化があらわれます。そのキッカケは1506(永正3)年の

前朝倉氏との戦いで敗れた越前の大坊・和田本覚寺と藤島超勝寺の加賀への亡命でした。

本覚寺や超勝寺は蓮如が1471年に吉崎にやってくる時にも力を尽くした大きな寺でしたが、

それぞれ今の寺井町和田山、加賀市塔尾(とのお)に拠点を設け、越前復帰を目指す活動を始めます。

ですから動橋川の上流域には、そのとき越前の人びとがたくさんやってきたのでしょうね。

講師の家山先生はおもしろいたとえ話をされました。

「みなさんのいる3年3組がホーム会長を中心に仲良くやっていたところに、他の学校から会長さんと

同じくらい力を持った転校生グループがやってきたとしたら、クラスはどうなるでしょうか?」

わたしたちはクラスの様子が変化し、トラブルが起こると思いました。

実際に加賀の国では、混乱が起きはじめ、「加州三ヵ寺」と「二寺」の対立が目立つようになります。

それでも実如(蓮如の五男)が本願寺法主だった1520年代までは、実如がどちらかといえば穏健派で、

実如の兄弟がいる加州三ヵ寺」中心の体制を支持していたため、「二寺」の動きをけん制

できていました。しかし、1525(大永5)年に実如が亡くなり、証如(しょうにょ)が8歳で10世法主につくと、

本願寺本山は加賀の「地方分権」体制に口出しをするようになり、加州三ヵ寺」と対立する

二寺」と連携するようになります。

加賀に「百姓の持ちたる国」をできてから半世紀近く、加州三ヵ寺」は絶大な力を保ってきましたが、

その一方で、生産力の向上にともない力をつけた新しい農民層があらわれていました。それぞれの村では、

富の分配や村における発言権をめぐってジェネレーションギャップが起こっていたのかもしれません。

そして新興の勢力は自分たちの利益をもとめて、ニューリーダーである「二寺」側についたようです。

1531(享禄4)年閏(うるう)5月、ついに加賀国で加州三ヵ寺」(=小一揆)と本願寺・「二寺

(=大一揆)が激突します。これはいわば本願寺門徒内での内部抗争(別名、享禄の錯乱といいます)で

あり、「中央集権」のしくみを加賀につくりあげようとする大一揆と加賀の地方分権」を守り抜こうとする

小一揆のあらそいでした。

たたかいの結果は大一揆の勝利でした。「加州三ヵ寺」は失脚し、「地方分権」が行われていた

加賀の地にも1546(天文6)年には金沢御堂が完成し、加賀は本願寺本山の直轄地に変わっていきます。

「生き馬の目を抜く」戦国時代にあって、本願寺や加賀の人たちは「百姓の持ちたる国」を守り抜くため、

地方分権」よりも「中央集権」を選択したのかもしれません。

(おまけ)

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