私は以前、倫理に関する本を書きました。無常だの無我だのを標榜する仏教は、善悪判断の絶対的な根拠を提供できない事情を論じ、自分の考え方を提起してみたのです。
ただ、巷では、割と簡単にこの問題に結論を出すアイデアを紹介する例が目立ちます。
例えば、仏教では修行を促進するものが善で、それを妨げるものが悪なのだ、という説です。
これは、教団内部では矛盾なく通用しますが、教団は常にそれより大きな共同体(社会)の中にあり、しばしば倫理問題は教団と社会を跨ぎます。すると単純な話では通用しなくなるでしょう。
仮に対抗勢力を虐殺したり政敵を恣意的に処刑するような「非道な独裁者」がいたとして、彼が仏教教団ないし修行者個人に対して、「自分に服従すれば手厚く保護するが、従わなければ弾圧する」と言い出したら(これまでもあり、これからもあり得るケース)、言われた側はどう態度を決めるのでしょう。
「保護」が「修行を促進する」以上、「独裁者に服従する」ことが仏教の立場として善行となるのでしょうか? 服従を拒否した結果、弾圧されて著しく修行が困難になったとしたら、その拒否は修行者の行いとして悪なのでしょうか?
さらには、人が何事か行ったとき、後悔がなく喜びがあれば、その行いは善行であり、その逆ならば悪行だいう言い方がありますが、このナイーブなアイデアはそのまま通用しないと思います。なぜなら、善悪判断は人間関係における問題である以上、一方に「後悔なく喜び」がある行為が他方とって「迷惑と不快」であることがあり得るからです。
「出家」(そもそも修行を可能にする行い)が本人の「後悔なく喜び」の行為だとして、出ていかれた親族にとっては「大迷惑」な場合があるでしょう。この「大迷惑」を無視して、本人の「気分」だけで事は「善行」であると仏教は断定できるのか?(できなかったから、初期教団が出家の条件に親族の許可を加えたのだろう)
私は、この種の教団と社会を跨ぐ善悪問題に判断根拠を示すことは、そう簡単ではないと考えます。
少なくとも私は、「後悔もなく喜び」に満ちて修行僧になったわけではなく、他に方法がなく仕方なく出家しました(父、憮然。母、大泣き)。だからと言って、悪行と思ったこともありません。
それもこれも、善悪問題は根本的に「世間」の問題であり、存続している教団も生きている修行者も、「社会内存在」であるという現実を免れないからです(托鉢も布施も、世間あってのもの)。
であるにもかかわらず、修行者と教団を観念的に社会から切断し(「そういう『世間』の問題に『出家者』は関知しない」という類の言い草)、教団内部の善悪判断に自己満足するなら、それは愚昧かつ無責任と言うべきでしょう。
ただ、巷では、割と簡単にこの問題に結論を出すアイデアを紹介する例が目立ちます。
例えば、仏教では修行を促進するものが善で、それを妨げるものが悪なのだ、という説です。
これは、教団内部では矛盾なく通用しますが、教団は常にそれより大きな共同体(社会)の中にあり、しばしば倫理問題は教団と社会を跨ぎます。すると単純な話では通用しなくなるでしょう。
仮に対抗勢力を虐殺したり政敵を恣意的に処刑するような「非道な独裁者」がいたとして、彼が仏教教団ないし修行者個人に対して、「自分に服従すれば手厚く保護するが、従わなければ弾圧する」と言い出したら(これまでもあり、これからもあり得るケース)、言われた側はどう態度を決めるのでしょう。
「保護」が「修行を促進する」以上、「独裁者に服従する」ことが仏教の立場として善行となるのでしょうか? 服従を拒否した結果、弾圧されて著しく修行が困難になったとしたら、その拒否は修行者の行いとして悪なのでしょうか?
さらには、人が何事か行ったとき、後悔がなく喜びがあれば、その行いは善行であり、その逆ならば悪行だいう言い方がありますが、このナイーブなアイデアはそのまま通用しないと思います。なぜなら、善悪判断は人間関係における問題である以上、一方に「後悔なく喜び」がある行為が他方とって「迷惑と不快」であることがあり得るからです。
「出家」(そもそも修行を可能にする行い)が本人の「後悔なく喜び」の行為だとして、出ていかれた親族にとっては「大迷惑」な場合があるでしょう。この「大迷惑」を無視して、本人の「気分」だけで事は「善行」であると仏教は断定できるのか?(できなかったから、初期教団が出家の条件に親族の許可を加えたのだろう)
私は、この種の教団と社会を跨ぐ善悪問題に判断根拠を示すことは、そう簡単ではないと考えます。
少なくとも私は、「後悔もなく喜び」に満ちて修行僧になったわけではなく、他に方法がなく仕方なく出家しました(父、憮然。母、大泣き)。だからと言って、悪行と思ったこともありません。
それもこれも、善悪問題は根本的に「世間」の問題であり、存続している教団も生きている修行者も、「社会内存在」であるという現実を免れないからです(托鉢も布施も、世間あってのもの)。
であるにもかかわらず、修行者と教団を観念的に社会から切断し(「そういう『世間』の問題に『出家者』は関知しない」という類の言い草)、教団内部の善悪判断に自己満足するなら、それは愚昧かつ無責任と言うべきでしょう。
失礼しましたm(_ _)m
ほんの数日前まで元気だったのに。
人間死ぬ時は、あっという間に死ぬこともあるのだな。
虚しい。
明快な定義のように見受けられます。
何故なら、善と悪は生物学的な個人的趣向の影響を受けてしまうからです。
大学生だった頃、善悪の判断基準に苦しみがあって、私にとって悪人であった人を許せず、苦しんだ時がありました。
あの人を憎む苦しみは
相当なものだったので
常にその人が頭から離れず
私の思考と感情にこびりついていたのです。
その時に受講科目で『善悪の哲学』があって受けたら
悪を種類別に分類して
絶対的な悪と個人の趣向の悪があり
それらを学問的に説明されました。
以降、個人の悪について
生物的な進化過程から考えられるようになり
その人への憎しみを頭の中から放つようになりました。
あの時、仏教の慈愛の教えには
腹が立ちましたよね。
秋らしくなりましたが気温差の大きな折、どうぞ御自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
服従の内容が、修行の妨げになるようなものなら、従わない。その結果、殺されたとしても、弾圧者を恨まない。そのように、修行を優先して殺された者は、良い生まれ変わりをして、また修行を続けられる。
初期経典によれば、そういうことになるのでしょう。修行とは、命懸けだと。
危険な場所に説法に行きたいと言った弟子に、その覚悟を釈迦が聞いたら、その弟子が、殺されたら、殺されたことを恨むことなく、むしろ感謝するという趣旨のことを返答したので、釈迦が、よろしい、と了承した、というような経典があるようです。実際、釈迦の弟子の中には、殴り殺された者がいるようです。
しかし、そんな実践は、かなり難しいですよね。
だから、現実は、仏教が歪められるケースが多いと思います。
>「出家」(そもそも修行を可能にする行い)が本人の「後悔なく喜び」の行為だとして、出ていかれた親族にとっては「大迷惑」な場合があるでしょう。この「大迷惑」を無視して、本人の「気分」だけで事は「善行」であると仏教は断定できるのか?(できなかったから、初期教団が出家の条件に親族の許可を加えたのだろう)
釈迦は、周囲の反対に逆らって、夜逃げ同然に出家したようですね。でも、弟子の出家には、家族の同意を条件にした。これをどう考えたらいいのだろうか。
家族の同意が無い者は、本当に出家を許さないのだろうか。
それは、ケースバイケースで、家族の同意を得させるというのは、命懸けの出家の覚悟が本当に本人にあるのかどうかを、当人に自問させる意味があるのではないか。
同意が得られなくて、それならば死ぬしかないとハンガーストライキをして、ようやく親の承諾を得た、という話が経典にあったような。
それから、トラブルは、できる限り小さくしたい、他の修行者の妨げになるから、という意味もあるように思います。
後で後悔しない行い、というのは、あくまで自分にとってのことであり、それは、正しい仏道修行だからこそ、自分が、後で後悔しない、ということになるのだと思えます。
その結果、悟ったとしたら、その悟った人の様子を見た周囲の人は、良かったと思えたのではないか、そう思います。
悟らないまでも、正しく修行している我が子の姿を見て、考えが変わることもあり得そうですね。
ただ、仏道修行を優先して命を落としたのを目にしたら、親は後悔するでしょうが、それもやがて、良かったことだと思える日が来るような気もします。修行によって良い生まれ変わりがあるという自業自得の輪廻を信じているなら尚更に。
世俗社会にとっては、無責任な話ですよね。
誰のおかげで生きていられるんだ、と世俗社会の側から言われそうですね。
でも、出家した釈迦は、その世俗社会では、社会的に死んだも同然、あるいは生命的に死ぬしかない状況に追い込まれていたから、悟りという一縷の望みに賭けて世俗社会を捨てて出家したのであり、托鉢で食が得られずに餓死することになったら、それも仕方ない、と覚悟していたのではないか、と思えます。
托鉢で食を得られても喜ぶな、得られなくても残念に思うな、食を得られるまで村をうろつき回るようなことをするな、必ず得られるような当てのあるところにだけ行くな、得られた食の中身に一喜一憂するな、在家と会う時には、空中に振った片手のようにせよ(精神的に何らの障害も受けない、ただ受け流すという意味のようです)ということが言われるようです。
なんとも、世間的には、とんでもなく、かつ命懸けなことだと思います。托鉢で食を得られなくて帰って来ても、他の僧から食べ残しを貰うな、という言葉まであるようです。
およそ世間からは理解されそうもない気がします。
托鉢で食を布施してやったのに、無表情で去って行くような修行僧には、次に来たら水をぶっ掛けてやりたくなるでしょうね。
そういえば、良寛は、托鉢で水をぶっ掛けられた次の日に、シレッとしてまた同じ家の玄関に鉢を抱えて立ったとか。
でも、それでも、食を布施するものが現れたということは、やはり悟った釈迦には、世間の人を納得させるだけのものがあった、ということだと思います。良寛にも、そういうものがあったと思います。
釈迦は、弟子に対して、他の修行僧や在家に会って機会があったら真理を教えてやりなさいとも言っています。
世間への責任は、説法でのみ果たす、と言えそうですね。
でも、それはなかなか理解も共感も、そして実践も難しいことなので、他にも積極的に世間と関わろう、世間に対してもっと責任を持とうとする思想が生まれる。それが大乗かな、と思っています。
「自分という檻」に囚われている人には、善悪はないでしょう。
どんなに善悪を言い表しても、結局は、善は「自分にとっての快」、悪は「自分にとっての不快」を言い換えているだけですから。
不幸に接するなどにより、誰しも「自分という檻」に囚われてしまうことがあります。
そういう方を見ていると、「穏やかな心境」に戻る契機が「他者を感じる」ことになっていることが多いのではないのかなと思います。
「他者を感じる」ことなく、自分しか考えていないのであれば、ずっと「自分という檻」に囚われてしまうのも仕方ないのではないかと思われます。
追伸:
「自分という檻」を解除する別の方法は、「自我を滅する」ことかと思われますが、これは修行が必要で、とても凡人にはできることではないように思われます。
我々生命体にとっては一切皆苦なのではないでしょうか。そして我々は総じて余計なことや過剰なことをやってしまう。解脱だけが「暗くない」ということなんです。
これは具体的にどうような修行ですか?どうしても付きまとう自己のような自我を滅する修行があるのでしたら教えてください。
@修行者と教団を観念的に社会から切断し(「そういう『世間』の問題に『出家者』は関知しない」という類の言い草)、教団内部の善悪判断に自己満足するなら、それは愚昧かつ無責任と言うべきでしょう。
世間に認知されている宗教団体のほとんどがこれに属しそうな。
どこに出家して修行したら自我を滅することができるのですか?
私は自我を滅したい。
相対の海で溺れてばかりの自己をようやく助けているのが、脳の働きを弱める、ということ。
すると、たぶん、自己の色眼鏡が多少消えて弛緩して、そのものをそのまま捉えることが出来ているのか分かりませんが自己が楽なのです。比べない、線を引かない。
このように常に現れる自己中心的な自我となんとか付き合っていますが、面倒なので自我を滅したいと思ってます。