パーリ経典に、次のようなゴータ・ブッダの言葉が出てきます。
「〈どこで、水、地、火、風は足場をなくすのか(存在しなくなるのか)。どこで、長・短、細かさ・粗さ、浄・不浄は〔足場なくすのか〕。どこで、名称(名)と形態(色)は跡形もなく消滅するのか。
ここにその解答がある。
定義づけられない、限定のない意識(識)を完全に捨てる場合。ここに水、地、火、風は足場をもつことはない。ここに長・短、細かさ・粗さ、浄・不浄は〔足場をもつことはない〕。ここに名称(名)と形態(色)は跡形もなく消滅する。意識の消滅によって、これ(名称と形態)が消滅する」(長部経典)
経典では、「水、地、火、風」は「四種の基本要素(四大)」と呼ばれ、当時の思想では、物理的存在の根拠となる元素として考えられています。「足場」という言い方を「存在根拠」の意味にとると、この言説は、四つの要素はそれ自体に存在根拠を持つ「実体」ではない、ということを主張しているでしょう。すなわち、「どこで」という問い方は、四要素の存在(不在)を可能にする次元を予想しているのです。
さらに、「長・短、細かさ・粗さ、浄・不浄」は観念を意味するでしょうから、人間の思考それ自体にも最終的な根拠はあり得ないという話になります。「名称と形態」はそれらをまとめて言っているわけです。
結論として、「どこで」の答えが「意識」だということになると、安直に考えれば、この時点でブッダは「唯心論」を説いているように誤解しやすいでしょう。
しかし、「意識の消滅」を言っているのだから、「意識」もそれ自体で存在する「実体」ではありえません(「実体」なら定義上、消滅しない)。そもそも、「意識」は「○○を意識する」という具合に、「意識ではない何か」に向かって発動しない限り、「意識」たりえません。要は、「意識」は「非意識」に依存的である、ということです。
では結局、このブッダの言葉は何を言っているのでしょう。
私に言わせれば、「存在」への問いにおいて第一義的なのは、通常は「現象」とか「経験」とか言い表されるような、ある「出来事」の発生なのだということです。「物体」と「意識」が「出来事」を起こすのではなく、「出来事」から言語作用が「物体」と「意識」を括り出すのです。
この「出来事」の発生には「根拠」がありません というよりも、「根拠」を問わないのです。問うなら、「どこで」というゴータマ・ブッダの問い方に背反することになります。
冒頭の文言(韻文)に先立つ(長文)の部分では、ブッダは以下のように言ったことになっています。
「比丘よ、次のような質問をしてはならない〈世尊よ、この四種の基本要素、すなわち地界・水界・火界・風界は、どのような場合に跡形もなく消滅するのか〉と」
この問い方をブッダが否定するのは、ある場合に消滅する(しない)という「出来事」の発生、すなわち「現象」の生起や「経験」の現前以前に、四要素の「存在」を前提にしているからです。より一般化して言うなら、「○○が発生する」「○○が消滅する」という言い方は、「発生」「消滅」とは別の「○○」の存在の仕方、つまり、「存在根拠」の役割を担う形而上学的な「実体」を否応もなく前提にしているのです。
経典に言うとおりに、ブッダがあの時代にまさに「問い方」を問題としたなら、その徹底的な思考の強度と、言語に対する並外れた自覚の深さを感じざるを得ません。その思想的直系は、誰がどう見ても『倶舎論』などではなく、『中論』でしょう。
「〈どこで、水、地、火、風は足場をなくすのか(存在しなくなるのか)。どこで、長・短、細かさ・粗さ、浄・不浄は〔足場なくすのか〕。どこで、名称(名)と形態(色)は跡形もなく消滅するのか。
ここにその解答がある。
定義づけられない、限定のない意識(識)を完全に捨てる場合。ここに水、地、火、風は足場をもつことはない。ここに長・短、細かさ・粗さ、浄・不浄は〔足場をもつことはない〕。ここに名称(名)と形態(色)は跡形もなく消滅する。意識の消滅によって、これ(名称と形態)が消滅する」(長部経典)
経典では、「水、地、火、風」は「四種の基本要素(四大)」と呼ばれ、当時の思想では、物理的存在の根拠となる元素として考えられています。「足場」という言い方を「存在根拠」の意味にとると、この言説は、四つの要素はそれ自体に存在根拠を持つ「実体」ではない、ということを主張しているでしょう。すなわち、「どこで」という問い方は、四要素の存在(不在)を可能にする次元を予想しているのです。
さらに、「長・短、細かさ・粗さ、浄・不浄」は観念を意味するでしょうから、人間の思考それ自体にも最終的な根拠はあり得ないという話になります。「名称と形態」はそれらをまとめて言っているわけです。
結論として、「どこで」の答えが「意識」だということになると、安直に考えれば、この時点でブッダは「唯心論」を説いているように誤解しやすいでしょう。
しかし、「意識の消滅」を言っているのだから、「意識」もそれ自体で存在する「実体」ではありえません(「実体」なら定義上、消滅しない)。そもそも、「意識」は「○○を意識する」という具合に、「意識ではない何か」に向かって発動しない限り、「意識」たりえません。要は、「意識」は「非意識」に依存的である、ということです。
では結局、このブッダの言葉は何を言っているのでしょう。
私に言わせれば、「存在」への問いにおいて第一義的なのは、通常は「現象」とか「経験」とか言い表されるような、ある「出来事」の発生なのだということです。「物体」と「意識」が「出来事」を起こすのではなく、「出来事」から言語作用が「物体」と「意識」を括り出すのです。
この「出来事」の発生には「根拠」がありません というよりも、「根拠」を問わないのです。問うなら、「どこで」というゴータマ・ブッダの問い方に背反することになります。
冒頭の文言(韻文)に先立つ(長文)の部分では、ブッダは以下のように言ったことになっています。
「比丘よ、次のような質問をしてはならない〈世尊よ、この四種の基本要素、すなわち地界・水界・火界・風界は、どのような場合に跡形もなく消滅するのか〉と」
この問い方をブッダが否定するのは、ある場合に消滅する(しない)という「出来事」の発生、すなわち「現象」の生起や「経験」の現前以前に、四要素の「存在」を前提にしているからです。より一般化して言うなら、「○○が発生する」「○○が消滅する」という言い方は、「発生」「消滅」とは別の「○○」の存在の仕方、つまり、「存在根拠」の役割を担う形而上学的な「実体」を否応もなく前提にしているのです。
経典に言うとおりに、ブッダがあの時代にまさに「問い方」を問題としたなら、その徹底的な思考の強度と、言語に対する並外れた自覚の深さを感じざるを得ません。その思想的直系は、誰がどう見ても『倶舎論』などではなく、『中論』でしょう。
考えるべき主題が「人はなぜ苦しむのか」ということならば、問題は「意識」という知覚の形態であり、外的環境の事は論じるに及ばずという事なのでしょうか。
これだと日常的な思考方法に囚われすぎでしょうか。
龍樹の「中論」の考える世界の成り立ちは徹底的な相互依存で出来上がった世界です。中心が存在しません。依存関係がほどけてしまえば、世界は消滅する、といったイメージです。量子力学の世界感に似ている、と思います。
一般的な宗教は救いの元になる「形而上学的存在」を設定します。もちろんそのような設定は仏教の中にも存在します。「苦
」を消滅するには、他者からの救いが最もダイレクトだからです。それらの設定を発想した仏教者が、方便として言ったのか、本気で言ったのか、私のような凡夫には分かりませんが。
そのようなものを救いと思えない私のようなタイプの人が龍樹の仏教を必要とするのだと思います。「中論」の思想が釈尊の言いたかったことだとしたら、釈尊もそんな人だったのでしょう。
ひかげさんは今、どのような感覚なのでしょうか?人の感覚はそれぞれ異なっていますから、自分にしっくりくる思想を選択すれば良い、と思います。もしもまだ、中論を読んでおられなければ、読んでみてもよいのではないでしょうか?
世界全体は生じることもなく、滅する事も無く、
静止したものとなるだろう。
現象界全体が、不変のものとなるだろう。
もしそれ(世界)が空でないならば、
行為には何の益もないだろう。
苦しみを終わらせる行為と
苦悩と煩悩を捨てる行為は存在し得ないだろう。
(中論24章 四諦の考察 [観四諦品 ])
仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
自己を忘るるといふは、万法に証せるるなり…」
道元禅師の、この御言葉をみた時は、度肝を抜かれてしまい、ショック状態になったこと、いまだ記憶に新しいです。。
「どこで存在しなくなるのか」
まさに、自己を忘れた時、なのかもしれませんね。
なぜ私が苦しいと感じるか? それは私が「無明から抜け出せない人」だからでしょう。少なくともその見方を追求するために、このブログなどからいろいろ学ばせてもらおうとしているところです。しかし、まだ十二支縁起を理論的に理解するに至らず、坐禅をしても浅いので錯覚を錯覚と体感するに至らずといったところです。
『中論』にも取り組んではいますが、あれってそんなに簡単な本ですか?中村元著『龍樹』を解説も含めて何度か読み返しましたが、私にとっては難解の書です。回を重ねるごとに少しずつ理解できる箇所が広がっているかなという気もしますが、まだまだですね。
趣味と解すればよいのか。
再生可能なんとかの追求なのか。