小学校4年生のころだったと思います。夏休みのある日、私は子供向けの科学雑誌のようなものを読んでいると、「地球は宇宙の塵が集まってできた」というような説が紹介されていました。今でいう惑星物理学の初歩の初歩みたいな話だったのでしょう。
「ほ、ほう~」と思った私は、ちょうど庭で草取りをしていた父親に軽い気持ちで声をかけました。
「ねえお父さん、地球ってどうしてできたか、知ってる?」
父親は顔も上げずに、
「なんだあ?」
「地球ってね、宇宙の塵が集まってできたんだよ!」
すると、父親はいきなり立ち上がって、えらい剣幕で怒鳴りました。
「子供が浅知恵で中途半端なことを言うな!(子供はそもそも「浅知恵」でしょ!)」
私はいきなり怒られて、驚くばかり。
「地球が出来た理由なんてのはな、科学的な理由もあれば、哲学的な理由もあれば、宗教的な理由もあるんだ!! わかったような口を簡単にたたくな!!!」
そう言われた小学生は、何がなんだかわかりません。何を怒っているんだろう?
どうも、草取りの邪魔をされたことだけで怒られたわけではなさそうだ・・・それに自分が言っていることを間違いだと言うのでもないし・・・・。
それに「哲学的」とは何だ?(おそらく「テツガク」という言葉を聞いたのは、この時が初めて) それに、地球と「宗教」に何の関係があるんだ? (「シュウキョウ」もこの時点でほとんどわかっていない)
私は怒られたことより、何で怒られたのかわからないことが、大変なショックでした。その日からしばらく考えに考えて、ようやく一つ思い当りました。
どうやら、問題が同じでも考え方はいろいろなんだ。そのどれが正しいか容易にはわからないし、どれにもそれぞれの正しさがあるのかもしれない。それをボクが簡単に雑誌の受け売りをしたんで、安直さにハラを立てたのか・・・・(実際は、草取りの邪魔をしたからでしょうが)。
父親は息子に教育らしい教育をしない人でしたが(教員なのに)、時々、後々までトラウマになるようなことを言いました。
私が、ある人が立てた問いと、それを解決するために彼が選択した方法と、その使い方にこだわるのは、父親に怒られたこの原体験があるからだと思います。
「問い」の立て方に遺漏はないか、解決に選んだ「方法」は問いを規定する条件にかなっているのか、「使用の仕方」は、「方法」を正当に作動させているのか。
およそ人がものを考えるのは、「真理」があるからではなく、「問い」があるからです。「問い」に見合う「方法」を使い、それによって「答え」を構成する。つまり、「答え」の正しさは、「問い」の立て方と「問い」と「方法」との関係の仕方で決まります(当たり前)。
私が日頃「真理」を無視するのは、このアイデアが「答え」の評価にしか関わらず、「答え」の評価は結局、「問い」と「方法」の吟味によるほかない以上、「真理」などという観念は要らないからです。
「ほ、ほう~」と思った私は、ちょうど庭で草取りをしていた父親に軽い気持ちで声をかけました。
「ねえお父さん、地球ってどうしてできたか、知ってる?」
父親は顔も上げずに、
「なんだあ?」
「地球ってね、宇宙の塵が集まってできたんだよ!」
すると、父親はいきなり立ち上がって、えらい剣幕で怒鳴りました。
「子供が浅知恵で中途半端なことを言うな!(子供はそもそも「浅知恵」でしょ!)」
私はいきなり怒られて、驚くばかり。
「地球が出来た理由なんてのはな、科学的な理由もあれば、哲学的な理由もあれば、宗教的な理由もあるんだ!! わかったような口を簡単にたたくな!!!」
そう言われた小学生は、何がなんだかわかりません。何を怒っているんだろう?
どうも、草取りの邪魔をされたことだけで怒られたわけではなさそうだ・・・それに自分が言っていることを間違いだと言うのでもないし・・・・。
それに「哲学的」とは何だ?(おそらく「テツガク」という言葉を聞いたのは、この時が初めて) それに、地球と「宗教」に何の関係があるんだ? (「シュウキョウ」もこの時点でほとんどわかっていない)
私は怒られたことより、何で怒られたのかわからないことが、大変なショックでした。その日からしばらく考えに考えて、ようやく一つ思い当りました。
どうやら、問題が同じでも考え方はいろいろなんだ。そのどれが正しいか容易にはわからないし、どれにもそれぞれの正しさがあるのかもしれない。それをボクが簡単に雑誌の受け売りをしたんで、安直さにハラを立てたのか・・・・(実際は、草取りの邪魔をしたからでしょうが)。
父親は息子に教育らしい教育をしない人でしたが(教員なのに)、時々、後々までトラウマになるようなことを言いました。
私が、ある人が立てた問いと、それを解決するために彼が選択した方法と、その使い方にこだわるのは、父親に怒られたこの原体験があるからだと思います。
「問い」の立て方に遺漏はないか、解決に選んだ「方法」は問いを規定する条件にかなっているのか、「使用の仕方」は、「方法」を正当に作動させているのか。
およそ人がものを考えるのは、「真理」があるからではなく、「問い」があるからです。「問い」に見合う「方法」を使い、それによって「答え」を構成する。つまり、「答え」の正しさは、「問い」の立て方と「問い」と「方法」との関係の仕方で決まります(当たり前)。
私が日頃「真理」を無視するのは、このアイデアが「答え」の評価にしか関わらず、「答え」の評価は結局、「問い」と「方法」の吟味によるほかない以上、「真理」などという観念は要らないからです。
子どもは、そもそも浅知恵ですか。
そうかなあ。ほんとに?
それはただ、南さんがそこらへんに疑問を持ったことが…いやいや。
昨日は、恐山でお会いできて大感激でした。
ありがとうございました。
-sophy「知る」
知を愛すること
人にモノを教えるという事は、正しさの押し付けかもしれない。逆に道をせばめているのかもしれない。お父様の苦悩が感じられるお話しでした。