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本日の探書ニュース 田中 彰 『明治維新の敗者と勝者』 『開国と倒幕』 その1

2017年05月19日 | 幕末・明治維新

             ▲田中 彰 『開国と倒幕』 「集英社版日本の歴史15」 1992年 集英社 

 

田中 彰 『明治維新の敗者と勝者』 『開国と倒幕』 「集英社版日本の歴史15」 集英社 1992年 

 

田中 彰 『明治維新の敗者と勝者』1980年 NHKブックス 『開国と倒幕』1992年 「集英社版日本の歴史15」 集英社 1992年 

 

「孝明天皇の急死」 について

田中 彰は すでに、『明治維新の敗者と勝者』1980年、NHKブックス368、日本放送出版協会、第四章の2で 「孝明天皇の毒殺事件」と題し、一項を費やし、この件についてやや詳しく論じていた。完全に陰謀毒殺事件と断定しているわけではないが、項目のタイトルに「孝明天皇の毒殺事件」と掲げている。

まずは、前著での田中彰の孝明天皇の発症以後の記述を、箇条書きにて記す。

 ▲田中 彰 『明治維新の敗者と勝者』1980年、NHKブックス368、日本放送出版協会

 

第四章2項の「孝明天皇の毒殺事件」は、上記の本の188頁~200頁に記載されている。

孝明天皇 慶応2年(1866)の暮

12月11日 内侍所で臨時神楽が行われ、天皇は風邪気味だったが、おして出御した。

12月12日 おもわしくないので高階典薬小允が診察

その後、山本典薬大允の診断では、痘瘡の熱らしいと判断

12月15日 手に一対の吹き出物

12月16日 吹き出物、顔に出る。色がつき、むくみ始める。夜明けまで一睡もせず、食欲もない。吐き気が強くなり、下剤を飲み、そのせいか、便は4度

12月17日 典医15名の医師団正式に痘瘡と診断発表。七社七寺に祈祷。関白以下の伺い相次ぎ、宮中出入り多くなる。

12月18日 京都守護職・会津藩主松平容保、所司代・桑名藩主松平定敬も参内。

         静かに睡眠もとれるようになる。

12月19日 朝から食欲も出てきた。医師たちはほっとして胸をなでおろす。

12月20日 食欲・便通・吹出物の経過順調。

12月21日 天皇のきげんもますますよくなり、吹出物からはウミを吹き出しはじめた。

12月21日 徳川慶喜、京都守護職や所司代を従え参内。

  中山忠能 (ただやす)日記には 「此御様子に候はば、惣て御順道との儀承り、恐悦存上候」 と記す。

 膿が出れば、あとはだんだんかさぶたになって固まるのである。医師は毎日のように「御順症」だとか「御順当」だとか報告。

したがって、12月21日以降は、目に見えて回復がはじまるのである。

 

12月22日 典医の記録

    午前二時 葛湯一碗、唐きび団子三つ

       二時過ぎ 唐きび団子五つ

    午前十一時 お粥一碗

    正午 大便少々

    午後二時 唐きび団子七つ

    午後五時 お粥一碗

    午後八時過ぎ 糒(ほしいい)一碗

    十二時前 小便

    午前一時前 お粥半碗、大根おろし少々

12月23日 

    午前六時過ぎ かたくり製菓子、湯にひたして、茶碗一杯半

    午前十時過ぎ 便通、さらに糒 碗一杯

    午前十一時 落雁を湯にひたしてまた一杯、もろこし六粒

    正午過ぎ  お粥一碗

    午後六時 白粥半碗  どんどん食欲出る。

    吹き出物のウミも出終わって、乾燥してかたまり始めた。

12月24日

    痘瘡の経過は快方へと順調に進んでいた。この日加持祈祷満願の日

 

ところが、

 

12月25日 

  前夜(12月24日)(深夜か)から突然激しい吐き気と下痢に襲われる。

  今までの順調な経過が一夜にして逆転。

「御九穴より御脱血」 

症状が急変する

血を吐き、顔面には紫の斑点があらわれ、ものすごい形相となった。

そして、苦しみあえぎながら、その夜遅く。不帰の客となった。三十六歳。」

 

田中彰は概略以上のような、孝明天皇の発症からその死までを整理した後、以下のように記している。

京都では、和宮隆嫁のころ、文久2年(1862)9月12日の夜、岩倉具視の邸内に匿名の書が投げ込まれた。

その書には、「岩倉具視が天皇に毒を飲ませようと図ったといううわさがもっぱらである、という。そして続けて、岩倉が明日、明後日に京都を立ち退かないと首を四条河原にさらし、家族も皆殺しにすると脅迫している」

すでに、孝明天皇の妹和宮を、徳川家に隆嫁する話がでていた頃、岩倉具視陰謀話が出ていたのである。

この書に書かれた事実の当否は、田中彰は、述べていないが、孝明天皇が36歳の若さで亡くなった結果、何がおきたのかは記している。

「むしろ問題は、天皇が生きていたら、「倒幕の密勅」が実現を見なかったことは疑いない、と言われているように、天皇が倒幕運動の障害になり始めていたことである。あの八・一八の尊攘・討幕派公卿追放の当の責任者は天皇であった。この(孝明)天皇の下では討幕派の進出は不可能であり、倒幕の大義名分をこの天皇から得ることは全く見込みのないことであった。」 田中彰 『明治維新の敗者と勝者』 199頁

「「玉は奪いえない。いやむしろ邪魔にさえなる。新しい「玉」こそが必要である。時あたかも、天皇は痘瘡に感染した。チャンスはやってきた。倒幕派の一演出家者が、ここでひとつの暗殺劇をしくんだとしてもあえて不思議ではない。そして、それは見事に成功した。」田中彰 『明治維新の敗者と勝者』 198~199頁)

「慶応三年(1867)正月九日、明治天皇は数え年十六歳で即位した。追放されていた親王・公卿はいっせいに赦免された。岩倉をはじめとする「王政復古」派の公卿は、この新しい「玉」をいただいて公然と政治活動を開始した。」 田中彰 『明治維新の敗者と勝者』 (199頁)

田中 彰は、1980年のこの著作では、「孝明天皇暗殺」の方にやや主力を置いているように見えるのだが、次の著作 『開国と倒幕』 「集英社版日本の歴史15」 1992年 集英社 では、視点が変更されていくのである。

田中彰の1980年の著作と1992年の著作の間には、1990年1月に出版された『日本近代史の虚像と実像 Ⅰ』という本に原口清 の「孝明天皇は毒殺されたのか」という論文が収録されていたのである。

 

つづく

 

 



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