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『松川事件の犯人を追って』 大野達三著 1991 新日本出版社 付箋チェック

2012年11月17日 | 戦後秘史・日本占領期

             ▲『松川事件の犯人を追って』 大野達三著 1991 新日本出版社 定価本体1553円+税

 

『松川事件の犯人を追って』 大野達三著 1991 新日本出版社 付箋チェック

 

下山事件をめぐって書かれた平成三部作のもとになる、週刊朝日の記事「下山事件ー50年の真相」連載の頃、1999年頃のことだが、1949年の占領下の「下山・三鷹・松川事件」関連の本を古本屋の店頭で見つけては買い求めていた時期があった。事件から50年がたち、多くの同時代の証言者がいなくなった。さらに事件後60年の2009年には、まだ少し新しい発見があるかと思っていたが、2009年には、佐藤一の旧作の再刊などがあるだけだった。もうこれ以上新しい証言は出そうにないようだ。それでは以前に読んで、付箋を貼っていた関連著作の事項をもう一度読み直すとしよう。まだ何か発見できるはず。 大野達三の『松川事件の犯人を追って』1991は、事件当時現地に飛んで調査取材しその後の裁判闘争も踏まえて書いたもので、なかなか他の著作にはない事実に触れている。特に松川事件は、長い裁判闘争になり、占領下の時期から、独立後にも裁判が及び、占領下では黙していた人々、あるいは黙さざるを得なかった人たちが、胸の奥底に溜まっていたものを語り出していた時期である。私が付箋を貼っていたある証言とは?

 

大野達三の『松川事件の犯人を追って』 1991 新日本出版社 はタイトルの「松川事件の犯人を追って」を巻頭に載せ、そのほかに、「戦後史の謎・下山事件」や秩父事件・スパイMのことなどを扱っている。

私が気になり付箋を貼っていたのは、松川事件当時、福島県内をエリアとしている地方新聞『福島民報』の編集局長をしていたN氏の証言録である。本では「N情報」として項目を立てている。
これは松川差し戻し裁判闘争も大詰め、1960年夏、松川対策協が現地調査を行い、体験談としてまとめたものの要旨である。取材時N氏は、「福島民報」をやめたあと、「北海タイムス」に移り、退職後、茨城県の新聞「新茨城タイムス」の編集顧問をしていた。
「茨城タイムス」の労働組合も松川事件裁判闘争の応援をしていて、その集会での発言で、彼は「事件のあと、軍政部によびつけられ、共産党がやったというように記事を編集せよと圧力をかけられた」と発言したことから、松川弁護団が注目して、彼に直接取材したのである。


以下元茨城タイムス編集顧問N氏の「福島民報編集局長時代」の発言を聞こう。


1 「自分は、「民報」の編集局長という立場にあったから、県(福島)の財政界はもちろん、警察、検察庁ともいろいろな接触があり、また右翼や、暴力団などともつき合いがあった。占領下であったから、軍の要人や通訳ともなにかと交渉があった。そうしたなかでの見聞や経験から、自分は松川の被告たちは、無実だと考えていた。松川事件は、アメリカの命令によって、暴力団のようなもののなかで、組織された、少なくとも八名ぐらいのグループで、実行され、実行後各地に分散されていると判断できる。」

2 「民報」(新聞)は玉川や山本といった警察、検察側と、特に密接な関係があり、そこからいろいろニュースを得ていた。たとえば、(松川裁判)第一審の論告・求刑は、公判の前日山本検事から入手し、、その夜のうちに求刑の内容をあらかじめ号外に刷り販売店におろした。同時に最終版の条件で、論告の要旨を流した。
 ところが平など浜通り方面では、(当日裁判の論告・求刑前に)間違って早くから配られ、「読売新聞」や共産党が騒ぎだし、法廷でも問題になりそうになったので、山本検事と連絡をとった。そのため、実際の求刑では、一、二名の量刑が変わった。それほど密接だった。もし、問題が大きくなり、山本が失脚でもすれば、「民報」か「毎日」で山本(検事)をひきとり一生飼い殺しにしなければならぬと話したことを覚えている。」

3 「福島民報」の社長飛鳥定城は、当時福島市の公安委員長だった。だから、警察の情報がよく入ったし、つきあいも多かった。松川事件のまえに起こった土木疑獄事件の際、玉川(県警)がある県有力者を検挙しようとしたため、大竹作摩県知事らが困り、私(N福島民報編集局長)が玉川・山本(検事)らの間に立って、捜査の収拾を話し合ったことがある。・・・・・」

4 「レビュー団(松川事件前夜、松川駅に近い松楽座という芝居小屋にレビューがかかり、事件の関連を疑われている・松本清張もこれに触れている)のことは、当時の新聞には、出なかったが、私の頭には残っている。松川事件の前後、福島には古市正大とか玉照とかいう親分がいた。興行界の大物であった北島源市は、年老いて跡目を譲ったような状態だった。北島のほうが先輩である。レビュー団などもってくるのは、古市か誰かがやらねばならないが、誰がやったとしても、北島には挨拶したと思う。
これらの人たちと関係がある大物に、東北ドックの社長中村一夫がいた。私は1951年「北海タイムス」へ移ったが、翌52年白鳥事件が起こった後、中村が北海道へやってきたことがある。その時中村は、福島にいた時となにか人が変わったようにみえた。「松川のことは忘れよう、思い出したくもない」というのである。また、古市正大は東北ドッグ争議を機に中村の配下に入ったらしい。」

5 「玉川(県警)や山本とは、自宅で酒を飲むほどのつき合い方をした。山本検事は、小唄や、三味線が好きで、なかなかの芸人であった。そういうことで、松川事件の捜査については、あれこれ詳しい情報をもらった。
当時の捜査の模様は、三冊のノートにメモしておいたのだが、焼いてしまった。
土蔵破りが現場付近で、八、九人の大男を見たという話は、あれは絶対本当だ。
玉川か誰かから、すでに事件当時「ヤジリキリ(破蔵り)をして目撃した奴がいる」と聞いた。
 警察が 不良狩り をやってみようという方針をたてたのは、事件後一週間ぐらいしてからである。だが赤間(松川事件の実行犯として逮捕される。のち最高裁は無罪判決)に目をつけたのは、かなり早くからで、私たちは、赤間を逮捕することは、あらかじめ知っていた。」

6 「当時米軍は、共産党撲滅に懸命であった。報道記事が米軍の意志に反するときは、逮捕する、沖縄に行ってもらうといわれた。事件当時の軍政部指令官は、クラークであった。そのほかゴスという大変悪い男がいた。たしか衛生関係だったと思う。教育関係を担当していたヘーワースというのは、一見紳士風で、日本語もすこしできた。

 怪人物という感じがしたのはジョージ・マスイと名乗る二世である。軍服を着ていたこともあり、着ていない時もあったが、、仙台から来たCICでなかったかと思う。彼は福島のCICにも軍政部にも所属がなかったし、福島は仙台の指揮を受けていたからだ。とにかく神出鬼没でどこからか現れ、いろいろなことを知っていた。特に民間、たとえば中村とか古市とかの接触が強かった。」 

7 「私は、軍政部関係から、内緒話のように情報を聞くことができる立場にあった。列車転覆実行者が七人とか九人とかおり、岡山に何人、京都に何人、と分散している。これらの人たちの面倒を、はじめのうちは、みていたというようなことは、ホンダ通訳か、誰か、確かな筋から聞いたこととして、今も記憶に残っている。当時勇気があれば、追求したのだが、「福島民報」にいる自分の立場や、人の迷惑を考えるとわずらわしくもあり、あえてやろうとはしなかった。だから、松川事件に対する私の確信を、証拠だててみろといわれても、それはできない。私も、知っているすべてを話しておらず、また大事なことを隠しているかもしれない。だがいまも、いつかは真実が明らかになると信じている。」


以上が、松川事件(1949年)当時「福島民報」新聞の編集局長だったN氏の証言である。


いかに占領下だったとはいえ、地方政治がかくも醜く腐敗していたことは明らかなのである。
新聞の編集局長が、明日の裁判の内容を聞き出し、それをこともあろうに、号外まで刷って特ダネ記事の準備をしているのである。手違いでうっかり、号外が、朝出回って配達されてしまい、大問題になり、編集局長がそれをまた、検事に善後策まで電話して相談しているのである。

いわゆる「報道機関の権力チェック機能」などは、占領の下で戦前の大政翼賛会の戦時体制と何ら変わらないことがこれでわかる。地方政界・司法・報道機関・財界など見事に一体化して少ないパイを貪っているのであった。

私が気になって付箋を貼っていたのは地方政治の腐敗の事例を集めるためではなく、ゴシックで表示した男のことがどうも気になっていたからなのである。もう一度下に再掲する。よく読んでいただきたい。

 
 「怪人物という感じがしたのはジョージ・マスイと名乗る二世である。軍服を着ていたこともあり、着ていない時もあったが、、仙台から来たCICでなかったかと思う。彼は福島のCICにも軍政部にも所属がなかったし、福島は仙台の指揮を受けていたからだ。とにかく神出鬼没でどこからか現れ、いろいろなことを知っていた。特に民間、たとえば中村とか古市とかの接触が強かった。」 

私はN氏の脳裏に深く刻まれ、怪人物として語られた「ジョージ・マスイ」という男はどうも「ジョージ・マスイ」ではなく、「ビクター・マツイ」のことではないかと思えるのである。
N氏は「ジョージ・マスイ」と聞いていたか、あるいは、本当のことを全部話していないと断っているので、故意に名を伏せていたのかもしれない。
大野達三の調査した一覧表には、福島で20人ほど米国軍関係者が確認されているのだが、福島の軍政局や福島CICには「ジョージ・マスイ」という二世アメリカ人は所属していない。
N氏も福島軍政局・福島CICにいないと言っている。
「怪人物」という印象で、「神出鬼没」で「軍服を着ていたり、着ていなかったり」「福島の興行界を仕切る親分たちと接触が強かったり」という男、要所要所でどこからか現れるこの男は一体何者なのだろうか。

G2セクションのウィロビーの指揮のもと、本郷ハウスのキャノン機関第一の片腕だった、「ビクター・マツイ」だった可能性はないであろうか。

ビクター・マツイとは、春名幹男の『秘密のファイル上巻』 2000年共同通信社 のち新潮文庫によれば

「マツイは1923年、カリフォルニア州生まれ。米陸軍准尉としてジャック・キャノンの副官を務めキャノン機関の撤収後1952年CIAに入った。1957年から2年間、カンボジア大使館に勤務。反シアヌーク派の軍人を抱き込んで、シアヌーク政権を打倒する秘密工作を展開したが、シアヌーク派の新聞に工作を告発され、急遽出国した。シアヌーク殿下の『CIAとの戦争』は、「1966年、破壊工作で、カラチから国外追放された危険人物」と書かれている。マツイはその後、マダカスカル、コートジボアール、ザイールのCIA支局長を勤めた。」


また畠山清行の『何も知らなかった日本人』1976年、青春出版社のち祥伝社文庫によれば

1949年の7月5日。下山国鉄総裁が行方不明となった夜、キャノン機関の本郷ハウスへ電話がかかってきた。夜まで仕事していた機関員の韓道峰が出ると、ベック松井からだった。松井は「万事かたづいた」とキャノンに伝えてほしいと伝言した。キャノンは、その夜は留守だった。「どこへ行くのか」と聞くと、「神戸までドライブだ。少々腐ったことがあってね。じゃぁ頼むよ」と電話を切った。
その明け方キャノンは帰ってきていたのだが、翌朝起きてから松井の伝言を伝えると、そんな大事なことを、なぜ急いで伝えなかったかと、ひどく叱られた。それでよく記憶している。韓道峰 証言

畠山清行は韓道峰と何度も会って証言を聞き出している。詳細な録音テープにとりながらの作業であったようだが、証言記録が全部終了しないうちに、韓道峰はなぜか 急死してしまった。畠山清行も死んでしまった上、テープは家族が処分してしまったそうで、とても残念なのだが、唯一幸いなことに『何も知らなかった日本人』で重要な証言記録を残してくれている。この本は細心の留意のもとに読み進めれば謎の事件を解く証言史料が豊富である。再読・三読するに値する本であると思う。

話が横道にそれてしまったが、ビクター・マツイ(松井)は、1949年7月5日、深夜、本郷ハウスには戻らず、電話をかけ、電話に出た韓道峰に「万事かたずいた」とキャノンへ伝えてくれと伝言したことは証言にある通り。
「万事」が何を指すか明らかではないが、「事」とは下山の事であるのは間違いない。ビクター・マツイ(松井)は明らかに当日まだ行方不明で捜索中だった「下山」のことを報告しているのだろう。
翌朝松井の伝言を聞いたキャノンはひどくあわてて、すぐ方々に電話をかけていた。
「しまった。まずいことをやってくれた」など言っているのを、韓道峰は聞いている。

このような次第で、ビクター・マツイ(松井)はキャノン機関の様々な仕事のセクションの中でも、全く記録を残せない、かなり闇の部分の仕事を命じられていたと思われる。

週刊朝日の諸永祐司記者は、下山事件の調査で渡米して、ビクター・松井の居住地を捜しだし、はじめてジャーナリストとして、彼に取材をした。『葬られた夏』2002

ここで、例の下山国鉄総裁行方不明の深夜「万事かたづいた」と伝言した電話の件を、ビクター・松井に問いを投げたのだが、彼は優秀な情報官らしく明確な記憶のことを話さない。韓道峰の証言は録音されていると言った時はじめて松井は狼狽の表情をみせたと諸永は記している。

韓道峰も、情報官らしく、事件を深く追及している畠山清行に対して、それらしいニセ情報をもたらして情報攪乱を計ったかもしれないと考慮する必要もあるので、断定は避けなければならないが。

ビクター松井は日本での仕事の後、1952年以降のCIA勤務の遍歴を見ると二度も勤務地の関係国から国外出国を余儀なくされるか、追放されている。情報収集以上の工作レベルの仕事が発覚しているからなのだろう。

渡米して会った諸永記者に対して
「われわれの最大の責務は日本に共産主義のタネがまかれるのを防ぐこと。コミュニズムを世界に広げないというアメリカの戦略に基づいて仕事をしていたんです」とビクター松井は語っている。

このような発想からすれば、ビクター・松井がキャノン機関員として、松川事件の前後も姿を見せている動機はある。

はたして、元福島民報編集局長が見た「ジョージ・マスイ」は「ビクター・マツイ」のことだったのか?


続く















 



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