▲大宅壮一 『実録・天皇記』 1952年 鱒書房 当時定価290円
大宅壮一 『実録・天皇記』 1952年 鱒書房 孝明天皇の死はどう書かれているのか ほか その1ー1
大宅壮一 『実録・天皇記』 1952年 鱒書房 ほか
▲大宅壮一 『実録・天皇記』 1952年 鱒書房
前書きで、大宅は、戦前から、天皇の万世一系の皇国主義には、同意できず、心情は左翼青年であったことを語っている。しかし、それでは戦前に生き抜くことはできず、また「不敬罪」などで捕まるほどまじめな左翼青年でもなかったから、それなりにやり過ごす程度の不良性を持ち合わせてもいた。
そのような人物であるから、天皇の歴史についても、いろいろ言いたいことも多く、調べていたことも発刊できず、書きとめていたのだろう。
戦後、「不敬罪」で逮捕されることもなくなり、庶民の目で、不思議の国の天皇を、書きたい放題で書いている。
アメリカ・連合軍の日本占領統治が終わった1952年、いよいよ私の出番と、発刊したのがこれだ。
自由に書く喜びに満ちていて、また、御用学者に何の借りもないから、どんどん書き連ねている。
巻末には折り込みで、「歴代天皇家私事一覧表」という実に面白い年表を作成している。歴代の天皇とともに、在位年(仮称も含む)在位年、在世年、生母の身分、生母の出身、侍妾数、子供数などが一覧できる。
天皇一人平均侍妾数は5.5人弱、子供11.1人弱などと算定している。
現在では大宅のこの本、角川文庫に収録されているようだ。若干補訂しているかもしれないが、彼は、戦前怒りつつ、また笑いも込めて、この「歴代天皇家私事一覧表」を作成していたのに違いない。
おっと、話は脇道にそれた。
大宅壮一が、この本で、彼が聞いた、孝明天皇の死については、噂話をあげているだけなのだが、どんな噂話を大宅が聞いていたのか、史学者の石井孝も触れていた。石井は、大宅の噂話の内容については書いていないので、該当部分を確かめてみた。
『実録・天皇記』 の285頁から287頁にかけて、2頁ほどである。
項目のタイトルは「天皇暗殺説」
下に主要部分を掲げる。
▲大宅壮一 『実録・天皇記』 の286頁 (天皇暗殺説は285頁~287頁)
いろいろな説が、資料・検証抜きで書かれているが。箇条書きで列記すれば
1 風呂場で刺された
2 岡本肥後守が抱き込まれて、「献毒」した
3 終戦後、祈祷師として信者をもっていた京都の日蓮宗の僧侶の日記発見
「天皇が急病だというので、あわてて御所にかけつけたとき、天皇の顔には紫の斑点があらわれて虫の息だった」
4 (3のからのつづき) 「その前の日に岩倉が天皇に新しい筆を二本献上したが、その穂先に毒が含ませてあったのだとも言われている。(孝明)天皇は筆をとるといつもなめる癖があったからだ
これに続けて、大宅壮一はアーネスト・サトウの『日本滞在記』を引用した後、
次のように、幕末の展開を整理している。
「毒殺ならなおさらのこと、自然死でも、幕府と朝廷をつないできた強い環は、これではずれてしまったことになる。」
「その後に立った明治天皇は、やっと十五歳だったので、時の関白二条齋敬が摂政に任ぜられた。二条家は、家康以来の徳川派だから、これと中川宮が手をにぎれば、倒幕派をある程度抑えることができたろうが、それも当時の情勢からいって、結局は長続きしなかったのであろう。というのは、新帝(明治天皇)の即位とともに、倒幕派の猛者連が追放解除の恩典に浴して、いっせいに復帰してきたからである。」
(大宅壮一 『実録・天皇記』 286~287頁)
次回は、田中彰 『開国と倒幕』 1992年 集英社 にみる、「孝明天皇の急死」 の記述
田中彰は、『明治維新の敗者と勝者』 1980年 NHKブックス 368 日本放送出版協会では、「孝明天皇毒殺事件」という項目をたて、記述しているのだが、1992年の著作では、孝明天皇の死については本文で扱わず、囲み記事のコラムに変化をしている。また「孝明天皇毒殺」から「孝明天皇の急死」というタイトルに変化を遂げている。これはなぜなのだろうか?
つづく