野散 NOSAN 散種 野の鍵 贈与のカオスモス ラジオ・ヴォルテール

野散 のさん  野を開く鍵 贈与のカオスモス 散種 混沌ー宇宙 想像的・歴史的なもののジャンルなき収蔵庫をめざして 

石井孝 『近代史を視る眼』1996 吉川弘文館 田中彰『明治維新の敗者と勝者』1980 NHKブックスほか 1-3

2016年10月24日 | 幕末・明治維新

         ▲アーネスト・サトウ 『一外交官が見た明治維新』 上 1960 岩波文庫 定価120円

 

石井孝 『近代史を視る眼』1996 吉川弘文館 田中彰『明治維新の敗者と勝者』1980 NHKブックスほか 1-3

 

石井孝 『近代史を視る眼』1996 吉川弘文館 田中彰『明治維新の敗者と勝者』1980 NHKブックスほか 1-3

1-2は、原口 清 「孝明天皇は毒殺されたのか」 のブログ主による私的抄録

1 孝明天皇の死 2016年 10月23日 当ブログ 抄録済

2 毒殺か病死か 2016年 10月23日 当ブログ 抄録済

 

3回目の今日は ▼ここから

3 医師が記す痘瘡の症状

これまでの、孝明天皇崩御をめぐる論考で欠けていたのは、疾病による病死、毒殺いずれの判断をするにしても、疾病・症状についての理解が足りなかったことであるとして、原口は、痘瘡の専門医から学ぶことにしたと最初に言明している。

これは首肯できるものだろう。

まず、ブログ主は、原口 清のこの論考について

私は当面、下の留意点に注意を払いながら読んでみることにした。


① 先入観念を持たずに対処する

② 典医記録や、孝明天皇周辺の側近史料を読むためにはどうするか

②ー1 痘瘡についての、医学的知識の基本的事項

②ー2 痘瘡の発病から治癒・完治までの一般的経過の理解

②ー3 痘瘡にも、現在の医学的観点からみると、さまざまなタイプがあるらしいのだが、当時の記録・記述をそれらから、どのようなタイプの痘瘡なのか、弁別し判断するにはどうしたら、適正なのだろうか

医師が目の前にある患者を診察して、主治医として、経緯を見守りつつ判断するのではないわけで、あくまでも典医記録や、側近の日記などから復元していくのだ

②ー4 痘瘡の治癒・完治過程に入ったその後に次の手の行動を試みた可能性、つまり毒殺を試みるという最悪の仮定も考慮されているのか

③ー1 ②ー4に関連することだが、薬物による暗殺という可能性を想定した場合、いかなる薬物が、孝明天皇の末期症状に適合するのか

                           ・

                           ・

上のようなことを考えて見ると

我々は、「100パーセント先入観念を持たずに対処するなんてことは、原則不可能であることに気がつく。わたしたちは、先入観念の塊でもあることを、認識しながら、自省しつつ、何事も省察しないわけにはいかないなぁ

                            ・

                            ・

では、原口 清 の 3 医師が記す痘瘡の症状

を読んでみよう。

ここで、過去の 痘瘡について、医師たちが記した、痘瘡の症状を、原口は示す。

水戸の医師 本間玄調 『種痘活人十全弁』 『近世漢方医学書集成23』 名著出版1976年

これは弘化3年大流行の痘瘡患者の惨憺たる状況を書いたものとしている。

また、現代医学からは

戸谷徹造 「痘瘡」 『ウィルス病の臨床』 医学書院、1967年

を紹介している。

重傷型に属する痘瘡を三つにわけ説明している。

さらに二つの医学書の紹介もしている。

佐々木学・海老沢功・神田錬造著 『熱帯病学』 東京大学出版会、1967年

甲野礼作・石田名香雄・沼崎義夫編 『臨床ウィルス学 講義篇』 講談社、1978年

これらの現代医学書からの痘瘡の理解は、以下のように要約文が、原口の論文に記されているので、この部分を採録する。 

 ▲原口 清 「孝明天皇は毒殺されたのか」 『日本近代史の虚像と実像』 1 大月書店 (54-55頁)

 

以上の痘瘡の基礎理解を念頭に、孝明天皇の死に関する史料の分析に入っていく。

 

4 天皇は痘瘡死だった

12月17日午後4時頃、中村慶子(明治天皇の生母)が父忠能宛て書簡で天皇の症状を報告。

12月20日頃が「御大事」と記し、このころが危険と記している。

また、天皇が下血したとの報告を、原口は、天皇の持病の痔疾ではなく、紫斑と合わせ、痘瘡による出血と見ている。

12月18日夜から、19日にかけて、孝明天皇の病は重大な危険があると、典医報告にあるのだが、

その後の典医報告書は、天皇の容態が日に日に回復を示す記録になり、天皇の症状が「至極御静謐」のことや、その日の食事内容など記されていく。

このことを、原口は、

「おそらく、関白・議秦・伝秦らの政治的配慮によるものであろうか、天皇の症状にかんする公式発表は楽観的に終始してきた」 『日本近代史の虚像と実像』 1 (56-58頁)

とするのだが、このあたりのくだりになると、原口清は典医らの記録から離れ、回復の兆候が記録されてきた「史料」から離れていく。

これは、12月20以降の「記録から離れて」、原口は「解釈・憶測」に移行している文章ではないかという危惧をブログ主は強く感じる。

また、58頁には、毒殺説の根拠としている天皇の症状

① 大便の度数の頻繁さ、強度のえつき(嘔吐)食欲不振

② 胸元への強いさしこみ、七転八倒の苦しみ

③ 「御九穴より御脱血」

④ 強度の痰喘

⑤ 紫斑点

⑥ 「御脈微細、四肢御微冷」

などは、「急性砒素中毒症状特有のものと断ずることは当をえない」 としている。

しかし、当ブログ主が先に 孝明天皇の死に関して、理解するための留意すべき点としてあげていた、史料に書かれていないことについて、

つまり、典医記録に、痘瘡に関する具体的記述が乏しくなり、食事内容が記述されるようになるのは、孝明天皇が危機を脱しつつあり、食欲も回復してきつつあることを記録している可能性があるのではないか、むしろ、そのような回復の兆候を記録したとする考え方が自然な解釈であるかも知れないのだが。

原口清はあらかじめ、以前に見られた、毒殺論者・陰謀論者にたいして、痘瘡に関する知識の乏しさ、陰謀論を持ち出す非をあげ、まず、論拠の前提となる、「痘瘡」の知識の理解を強く促したのは、功績であると思う。

しかし、ブログ主は、「陰謀工作がない歴史」など探してはいるが、帝国や、帝国主義へと舵を切った国に、陰謀・工作の痕跡がないとは、とても考えられない。また、ギリシア・ローマ時代の帝国の盛衰、古代中国の王権、日本の古代王権の変容を見ても、歴史の常態は、陰謀・工作に満ちているといってもいい。

ここまでの原口清のこの論考で、

孝明天皇は、「紫斑性痘瘡と出血性膿疱性痘瘡の両者を含めた出血性痘瘡で死亡したとみてよいであろう。」と締めくくっている。

5 そのとき岩倉具視は

4 の、「孝明天皇の痘瘡死」の結論をうけて、原口は、かねて、毒殺説者が陰の首謀者ではないかとしている岩倉具視について、触れている。

この項の冒頭で、原口清は、

「孝明天皇が痘瘡死だとすると、、天皇毒殺の下手人や、黒幕はだれかなどといった議論はまったく無意味となる。」 (58頁)

と言っている。

「孝明天皇の死をはさむ前後およそ半年間の岩倉は、武力による幕府打倒論者ではなかったことはもちろん、平和的形態における幕府制廃止論者でもなかったということである。」 (57-58頁)

「岩倉は、1966年(慶応2)5月ごろから同年10月ごろにかけては、平和的形態で幕府を廃止し、朝廷が政権を掌握する道を考えていた。」 (58頁)

岩倉具視が

「武力倒幕路線をとるようになるのは、薩摩藩指導者たちが武力倒幕路線をあゆみはじめる1867年6月ころからであろう。」 (60頁)

「孝明天皇の死因に関する論争は、終止符がうたれてよいもの」 (60頁)と原口清は結論している。

さて、原口清は、1990年1月19日刊行の本 『日本近代史の虚像と実像』の中で「「孝明天皇は毒殺されたのか」を寄稿している。

これに対して、同じ幕末・明治維新研究者である石井孝が、反論・論争を開始した。

次回 1-4 は、石井孝の、原口清の「孝明天皇痘瘡死説」への反論を見てみたい。

 

▲ 石井孝 「孝明天皇病死説批判」の論文が収録された『近代史を視る眼』 1996年 大月書店

 

続く



最新の画像もっと見る