エッセイ:「Suicaの刷り増し(33)」2014.12
早いもので今年も後わずか、良いことも悪いことも覚えきれないほどたくさんあった。
東京駅開業100周年記念のSuica一万五千枚を発売した件はなんともお粗末で、 死傷事故につながらなくて不幸中の幸いであった。
方針を変更して、来年一月に希望者全員が購入できるように刷り増しするという。どういう意図でわずか一万五千枚に限定販売にしたのかよくわからない。いい加減なものだ。
インターネットのオークションでは10万円前後で取引が出ると噂されていた。マニアは希少で出回る数が少ないものを欲しがる。6千円(3枚)の元手で30万円を稼げることを期待していた人はさぞかし残念だろう。
中国や血の気の多い国などであったら、おそらく購入できなかったマニアが怒りくるって暴動にまで発展しかねないケースである。
ところで先日、市の美術館に友人も出品した写真展を鑑賞した折、同じフロアで行われていた、「総武鉄道・市川―佐倉間の開通120周年記念」の資料展示会をのぞいた。官設鉄道による新橋―横浜間の開業の22年後である。展示を見ながら、それまで千葉県の鉄道について何も知らなかったことに恥じた。
まず総武鉄道の起点が何と千葉県市川駅である。固定観念を持っていると、何でも東京を起点にしてしまい、また現在のJR総武線が国鉄由来のものであると考えがちである。しかし、当初は国鉄ではなく民営の総武鉄道会社が開業した線なのである。
その後、総武鉄道本所による本所(現錦糸町)~市川間が開通し、明治30年には錦糸町~佐倉~成東~銚子間が開通する。ちなみに総武線の由来は、上総、下総、武蔵の3国を通るからである。
本所(錦糸町)~佐倉~成田~佐原~銚子の北ルートでは佐原町(現佐原市)の伊能権之丞が、本所(錦糸町)~佐倉~成東~銚子の南ルートでは成東町の31歳の青年の安井理民(はるたみ)が、千葉県で最初の鉄道敷設に名乗りをあげた。当時、千葉県は利根川と江戸川を結ぶ利根運河の工事をバックアップしており、これへの影響も考慮して知事はどちらの鉄道敷設の請願も却下した。
ところが銚子への延長は、南の佐倉~八街-成東経由と、北の佐倉~成田-佐原経由の競願ルートは、陸軍大臣を巻き込んでの誘致合戦となった。多額の出資をした銚子の醤油業者(ヤマサ、1645年創業)の主張で佐倉-成東経由が決まり、明治30年に総武本線が開した。
遅れて明治34年には、成田鉄道会社(民営)が佐倉―成田間開設、明治34年には銚子まで延長して成田線は我孫子~銚子間の全線で開業した。しかし、成田線および総武線ともども鉄道国有法(明治39年)により私鉄の17社が国に買収されたのである。
ところで、銚子までのルートがそれほど必要であったのだろうか。また千葉県は利根川と江戸川を結ぶ利根運河の工事をバックアップしており、とあるがどういうことだったのか、疑問がわいて調べたところ、目からウロコであった。すでに知識のある方は、いまさら何を言っているのだとお笑いでしょうが。
過日私のエッセイでも書いたが、江戸時代から明治時代にかけては、北海道や東北からの物資の輸送は北前船によるものであった。
大阪、近畿方面には日本海から北陸経由で陸路で輸送するものと、日本海から下関、瀬戸内海経由で輸送するものとであった。一方江戸、関東方面には反対周りの太平洋経由の船で輸送されていた。ところが、江戸湾に入るには、房総半島を大きく迂回するルートのほか、銚子から利根川をり、千葉県の最北端にある城下町の関宿(現野田市)で分流する江戸川を下って江戸湾にいたるルートがあった。
なおこの関宿での分流は、利根川の氾濫・水害防止を目的に水量を江戸川に分散するために江戸時代の初期に大工事で行われたものである。
ところがこのルートには一部に浅瀬があり大型船が通航できず積み替えが必要だったことと、距離が長かったために途中を陸路でショートカットする場合があった。
明治時代になり、貨物の輸送量が増えたことから、利根運河株式会社が設立され、明治23年には陸路でのショートカットの部分の利根川口の船戸(柏市、常磐自動車道傍)と、江戸川口の深井新田(流山市)に運河が開通した。 明治24年の舟運は年間約37,600隻にのぼった。明治28年には、東京~利根川運河~銚子間の直行の汽船が就航、144kmを18時間(時速8キロ)で結んだ。
明治29年、*日本鉄道土浦線(民営、後の常磐線)が開通すると、それまで蒸気船で1泊2日を要した都心までが、わずか2時間で結ばれるようになった。明治30年、銚子~東京間に総武鉄道(後の総武本線)が開通し、所要時間が従来の5分の1(4時間)となった。これにより、長距離航路は急激に衰退し、運河の最盛期は、開通から明治43年頃までのわずか20年程度であった。
さらに太平洋戦争に突入すると、改正陸運統制(昭和16年)によって戦時買収私鉄は22社に上った。首都圏では、南武線、五日市線、鶴見線、青梅線、相模線などがある。
何のことはない。日本国有鉄道とはおおむね民営でスタートした鉄道を買収、国営化したものであった。血も汗も流していない鉄道を上手く運営できるわけがなく、民営に逆戻りした所以であろうか。
* 日本鉄道は、日本初の私鉄であり、現在の東北本線や高崎線、常磐線など、東日本の東日本旅客鉄道(JR東日本)の路線の多くを建設・運営していた会社である。
* 甲武鉄道は御茶ノ水、新宿、八王子を開業した(中央線の一部となった)。現在の西武国分寺線および新宿線の東村山 - 本川越である川越鉄道、および青梅線である青梅鉄道は、甲武鉄道の支線にあたる。
早いもので今年も後わずか、良いことも悪いことも覚えきれないほどたくさんあった。
東京駅開業100周年記念のSuica一万五千枚を発売した件はなんともお粗末で、 死傷事故につながらなくて不幸中の幸いであった。
方針を変更して、来年一月に希望者全員が購入できるように刷り増しするという。どういう意図でわずか一万五千枚に限定販売にしたのかよくわからない。いい加減なものだ。
インターネットのオークションでは10万円前後で取引が出ると噂されていた。マニアは希少で出回る数が少ないものを欲しがる。6千円(3枚)の元手で30万円を稼げることを期待していた人はさぞかし残念だろう。
中国や血の気の多い国などであったら、おそらく購入できなかったマニアが怒りくるって暴動にまで発展しかねないケースである。
ところで先日、市の美術館に友人も出品した写真展を鑑賞した折、同じフロアで行われていた、「総武鉄道・市川―佐倉間の開通120周年記念」の資料展示会をのぞいた。官設鉄道による新橋―横浜間の開業の22年後である。展示を見ながら、それまで千葉県の鉄道について何も知らなかったことに恥じた。
まず総武鉄道の起点が何と千葉県市川駅である。固定観念を持っていると、何でも東京を起点にしてしまい、また現在のJR総武線が国鉄由来のものであると考えがちである。しかし、当初は国鉄ではなく民営の総武鉄道会社が開業した線なのである。
その後、総武鉄道本所による本所(現錦糸町)~市川間が開通し、明治30年には錦糸町~佐倉~成東~銚子間が開通する。ちなみに総武線の由来は、上総、下総、武蔵の3国を通るからである。
本所(錦糸町)~佐倉~成田~佐原~銚子の北ルートでは佐原町(現佐原市)の伊能権之丞が、本所(錦糸町)~佐倉~成東~銚子の南ルートでは成東町の31歳の青年の安井理民(はるたみ)が、千葉県で最初の鉄道敷設に名乗りをあげた。当時、千葉県は利根川と江戸川を結ぶ利根運河の工事をバックアップしており、これへの影響も考慮して知事はどちらの鉄道敷設の請願も却下した。
ところが銚子への延長は、南の佐倉~八街-成東経由と、北の佐倉~成田-佐原経由の競願ルートは、陸軍大臣を巻き込んでの誘致合戦となった。多額の出資をした銚子の醤油業者(ヤマサ、1645年創業)の主張で佐倉-成東経由が決まり、明治30年に総武本線が開した。
遅れて明治34年には、成田鉄道会社(民営)が佐倉―成田間開設、明治34年には銚子まで延長して成田線は我孫子~銚子間の全線で開業した。しかし、成田線および総武線ともども鉄道国有法(明治39年)により私鉄の17社が国に買収されたのである。
ところで、銚子までのルートがそれほど必要であったのだろうか。また千葉県は利根川と江戸川を結ぶ利根運河の工事をバックアップしており、とあるがどういうことだったのか、疑問がわいて調べたところ、目からウロコであった。すでに知識のある方は、いまさら何を言っているのだとお笑いでしょうが。
過日私のエッセイでも書いたが、江戸時代から明治時代にかけては、北海道や東北からの物資の輸送は北前船によるものであった。
大阪、近畿方面には日本海から北陸経由で陸路で輸送するものと、日本海から下関、瀬戸内海経由で輸送するものとであった。一方江戸、関東方面には反対周りの太平洋経由の船で輸送されていた。ところが、江戸湾に入るには、房総半島を大きく迂回するルートのほか、銚子から利根川をり、千葉県の最北端にある城下町の関宿(現野田市)で分流する江戸川を下って江戸湾にいたるルートがあった。
なおこの関宿での分流は、利根川の氾濫・水害防止を目的に水量を江戸川に分散するために江戸時代の初期に大工事で行われたものである。
ところがこのルートには一部に浅瀬があり大型船が通航できず積み替えが必要だったことと、距離が長かったために途中を陸路でショートカットする場合があった。
明治時代になり、貨物の輸送量が増えたことから、利根運河株式会社が設立され、明治23年には陸路でのショートカットの部分の利根川口の船戸(柏市、常磐自動車道傍)と、江戸川口の深井新田(流山市)に運河が開通した。 明治24年の舟運は年間約37,600隻にのぼった。明治28年には、東京~利根川運河~銚子間の直行の汽船が就航、144kmを18時間(時速8キロ)で結んだ。
明治29年、*日本鉄道土浦線(民営、後の常磐線)が開通すると、それまで蒸気船で1泊2日を要した都心までが、わずか2時間で結ばれるようになった。明治30年、銚子~東京間に総武鉄道(後の総武本線)が開通し、所要時間が従来の5分の1(4時間)となった。これにより、長距離航路は急激に衰退し、運河の最盛期は、開通から明治43年頃までのわずか20年程度であった。
さらに太平洋戦争に突入すると、改正陸運統制(昭和16年)によって戦時買収私鉄は22社に上った。首都圏では、南武線、五日市線、鶴見線、青梅線、相模線などがある。
何のことはない。日本国有鉄道とはおおむね民営でスタートした鉄道を買収、国営化したものであった。血も汗も流していない鉄道を上手く運営できるわけがなく、民営に逆戻りした所以であろうか。
* 日本鉄道は、日本初の私鉄であり、現在の東北本線や高崎線、常磐線など、東日本の東日本旅客鉄道(JR東日本)の路線の多くを建設・運営していた会社である。
* 甲武鉄道は御茶ノ水、新宿、八王子を開業した(中央線の一部となった)。現在の西武国分寺線および新宿線の東村山 - 本川越である川越鉄道、および青梅線である青梅鉄道は、甲武鉄道の支線にあたる。