エッセイ:「どうして空気ばかり読むのか(11)」 2012.03
板井省司
「これは、なんだ。地震の直後、仙台市内に押し寄せる津波。TVで目の当たりに見た衝撃的な光景だ。家も、畑も、田んぼも、車も、飛行機も、あらゆるものが巨大な大蛇に飲み込まれていく。頭の中では分かっていたつもりでいたが、現実に起こった状況に身体の震えが止まらなかった」。さらに三陸海岸一帯も津波の破壊に見舞われる恐ろしい生き地獄であった。
追い打ちをかけたのが福島第一原発の電源喪失による機能不全に陥った放射能漏れ事故である。大地震・津波は天災であって日本で生きている限り、必ず起こるものと覚悟をしておかなければならない。しかし、安全で低コスト、クリーンなエネルギーであると、いいことづくめでもてはやされた原発事故は人間の欲・油断・いい加減さが生み出した人災である。
ところが、原子力専門家でも影響力のある委員の中には、この後に及んでも福島原発の事故は特別なケースであり、一般には原発は安全であると言ってはばからない御用学者がいるのである。
一昔前、水洗処理がなかったころ、我々の人糞は厠(かわや)の中からくみ取り、「肥ため」に集めるか、海洋投棄をせざるを得なかったのである。「肥ため」のものは腐敗を待って畑にまいたものだ。その臭いは強烈であったが、有機の人糞は時間が経てばある意味消滅してしまうから問題はなかった。
これに比べて原発の放射能廃棄物は処理の方法がなく、年々山積みにされて行くだけである。検討されているのは、ガラスで固化し、金属容器に入れて地下300メートルに敷設する「地層処分」である。
しかし、これも地元住民らの承諾を得て実現するのはいつになるのか見当もつかない。またこの方法も10万年の安全を如何に保証出来るかと云う 問題を突き付けている。
「トイレのないマンション」と揶揄されてきた原発と核燃料サイクル体系は改めてその成否を問われているのである。
欧米では天災時や貧困に対して教会等が対象者にいち早く手を差し伸べているのを見ることが多い。ところが日本の仏教を中心とする宗教団体では一部を除いてほとんどそういう光景を見かけないのである。
うがった見方をすると、寺にお布施をくれる檀家ではない人びとに関心を持たず、余計なお節介もしない。余計なことをすると檀家にソッポを向かれることが心配なのだろうか。
さらには井の中に閉じこもって布教心も人助けも忘れてしまったのだろうか、と不思議に思っていた。
ところが、久々に日本の仏教会が動いたのである。私はどの宗教にも加担しない主義であるが、この全国仏教協会の動きに注目するのである。
全国仏教会が「脱原発宣言」を発表した。政治的発言を控えて来た同会としては異例のことだ。「誰かの犠牲の上に成り立つ豊かさを願うのではなく、個人の幸福が人類の福祉と調和する道を選ばねばならない」と明言している。
「日中・太平洋戦争で仏教会は何をしたか。戦争反対の声を上げずに、信徒から集めた寄付金で、軍に戦闘機を送ったこともあった。それでも戦後は懺悔もしていない。あの戦争の時、国家に順応して戦争に協力してきたことと、原発問題に口を閉ざす雰囲気が重なる。
運命の尊厳を唱える仏教者として原発は持ってはいけないものだ。生活のあり方を見直して、原発を必要としない社会を目指すべきだ。」戦争中、多くの仏教者が口を閉ざしたことを反省し、今こそ原発問題で刷新すべきだと。
一方、「独立検証委員会」の北沢宏一委員長は「原子力ムラ」の体質を厳しく指摘した報告書を出した。「原発の安全神話」による自縄自縛が生まれていた。なぜこれ以上の安全策が必要なのかと云う論理だ。
一人ひとりは安全対策に問題があると思っていたが、自分が何かを言ってもどうしょうもないと、みんなが空気を読みあっていたと。空気を読むことが日本の社会で不可避であるとすれば、そのような社会は原子力のようなリスクの高い大型で複雑な技術を安全に運営する資格はない。世の中の空気を読んで口を閉ざす。その愚を繰り返してはならない。
宗教家と科学者が説く原発事故の教訓である。(政治「考」朝日新聞編集委員:星浩)
卑近な例は、東電が電気料金値上げを4月1日から実施するにあたって、契約者に一方的に値上げ要請を突き付けてきたことである。いやなら他の電力会社と契約をしてくれと云う「騙し討ち」の脅し文句であった。
さすがに一部のマスコミが契約期間中には値上げに応ずる必要がないと、騒いだため東電は釈明し「その通り」と頭を下げたのだ。
私を含めて日本人は従順である。権威からのお達しは素直に受ける。それがたとえ理不尽であっても自らは正面切って反論しない気質である。
そしていつも「物言わねば腹膨る(心に思っていることを言わないでいると不満が溜まり、腹が張ったようで不快である)」を味わっているのである。