つれづれなるまま映画を観て過ごす「ベッチーの映画三昧日記」

映画検定1級のベッチーのベッチーによるベッチーのための映画館鑑賞記録gooブログ。
コンテンツ:ベッチーの映画三昧日記

「FAKE」

2016-09-27 19:15:07 | goo映画レビュー
●ベッチー的映画三昧日記
 何が真で何が嘘か、世の中そんな単純なものでもない「FAKE」の中の真実とは?


オウム真理教を追った作品以来長く沈黙していたドキュメンタリー映像作家の森達也監督が15年振りに完成させた「FAKE」が公開された。
 これが、ドキュメンタリー映画を考えるうえで、とんでもなく面白い作品だった。

 本作は、現代のベートーヴェンとマスコミからもてはやされ、ゴーストライター騒動で一挙に奈落の底に突き落とされた難聴の作曲家佐村河内守氏の事件後の姿を取材している。ところが、森氏が常に厳しい眼を注いできたマスコミの在り方と同様に森氏もバラエティ的のりで作ってしまったドキュメンタリーフェイクの映像作品というところがミソだ。

 ドキュメンタリーと銘打った作品でも、ずっとカメラを回しっぱなしにしているわけではない。撮影する内容、日時は監督と被写体となる人との打ち合わせによって決められている。本作も佐村河内守氏を被写体として1年間余りを追っているが、撮影は月1回なり、2回ぐらいしか行われていないように感じた。目的があって制作しているのだから、撮影、編集の段階で監督の恣意的なものが加わるのは当然のこと。映像には監督の作為が入るのだから、事象は写せても、真実は写せないということが本作からよくわかった。ドキュメンタリーも、ある意味、監督が作った虚構の世界なのだ。
タイトルの「FAKE」の言わんとする意味は重い。

 ようは観る側がどのように解釈し判断するかだ。これはドキュメンタリーであろうがなかろうが映画であろうがなかろうが、映像に対して本来持つべきスタンスだ。
今回、森監督は佐村河内守氏を題材に、二重三重のFAKEを張り巡らし、映像とそこにうごめく人たち、マスメディアに対して“映像の持つ真実とは何ぞや”というメッセージを送ったように感じた。

 でも、映像というのは実に残酷なものでもある。
 その意味で「FAKE」のラストは確かに衝撃的である。これは言わないのが最低のマナーだから触れませんが、本作の発表により大衆の面前で佐村河内氏が音楽を披露することは、もう絶対にあり得ないだろうと私は確信した。

「オーバー・フェンス」

2016-09-24 22:10:04 | goo映画レビュー
●ベッチー的映画三昧日記
何気ない日常に少し感動してしまう「オーバー・フェンス」

芥川賞や直木賞などの候補に何度も挙がりながら、無冠のまま自ら41歳で命を絶った小説家佐藤泰志。死後十数年たって故郷函館の仲間たちが映画化した「海炭市叙景」が評判を呼び、続いて映画化された「そこのみにて光輝く」が数々の映画賞を受賞。皮肉にも今、佐藤泰志が再評価されブームになっているという。
 これらの作品はいずれも映画化にあたり佐藤の故郷、函館を舞台としている。その函館3部作の最終章と銘打った「オーバー・フェンス」が公開された。佐藤の作品は市井の人々の日々の暮らしの中で、不器用な人たちが素直に生きたいのに、そのためにもがき苦しむ様を描くことが多い。前2作は重い雰囲気の終わり方だったが、多彩なジャンルを何でもこなす山下敦弘監督が手掛けた「オーバー・フェンス」のエンディングが希望の兆しが見えたのが救いだった。

 映画は職業訓練校の授業風景から始まる。オダギリジョー演じる白岩は、妻と離婚し故郷・函館に戻り職業訓練校の建築科に通っている。実家へも寄りつかず、人と距離を置き人生を諦めかけた彼が、風変わりなホステス・聡(蒼井優)と出会い、自分自身を見つめなおしていく…。
 
 原作者の佐藤泰志自身一時東京から函館へ戻り、職業訓練校の建築家に在学していたというから、本作は多分にその時の実体験をベースとしたものだろう。

 職業訓練学校での日常が丁寧に描かれるが、そこに集う若者から中年、初老まで年齢も違うさまざまな人生を歩んできた人たちの姿が新鮮に映る。学校ではあるが、何か色々な理由で逃げ込んできた輩もいて、何の説明もなく見ていると職業訓練校が刑務所の矯正施設に見えなくもない。

 本作は、職業訓練校でのエピソードと聡に惹かれていくエピソードの話が白岩の日常の中で交互に描かれていく。そしてその二つの話が最後のソフトボール大会で白岩の明日へのプロローグとして結実する。人生は長く、決してハッピーなことばかりではないが、前へ歩んでいかなければならない。
 だから、主人公が、とりあえず「オーバー・フェンス」を一歩踏み出したと、予感させるエンディングが私は好きだ。