●ベッチー的映画三昧日記
何が真で何が嘘か、世の中そんな単純なものでもない「FAKE」の中の真実とは?
オウム真理教を追った作品以来長く沈黙していたドキュメンタリー映像作家の森達也監督が15年振りに完成させた「FAKE」が公開された。
これが、ドキュメンタリー映画を考えるうえで、とんでもなく面白い作品だった。
本作は、現代のベートーヴェンとマスコミからもてはやされ、ゴーストライター騒動で一挙に奈落の底に突き落とされた難聴の作曲家佐村河内守氏の事件後の姿を取材している。ところが、森氏が常に厳しい眼を注いできたマスコミの在り方と同様に森氏もバラエティ的のりで作ってしまったドキュメンタリーフェイクの映像作品というところがミソだ。
ドキュメンタリーと銘打った作品でも、ずっとカメラを回しっぱなしにしているわけではない。撮影する内容、日時は監督と被写体となる人との打ち合わせによって決められている。本作も佐村河内守氏を被写体として1年間余りを追っているが、撮影は月1回なり、2回ぐらいしか行われていないように感じた。目的があって制作しているのだから、撮影、編集の段階で監督の恣意的なものが加わるのは当然のこと。映像には監督の作為が入るのだから、事象は写せても、真実は写せないということが本作からよくわかった。ドキュメンタリーも、ある意味、監督が作った虚構の世界なのだ。
タイトルの「FAKE」の言わんとする意味は重い。
ようは観る側がどのように解釈し判断するかだ。これはドキュメンタリーであろうがなかろうが映画であろうがなかろうが、映像に対して本来持つべきスタンスだ。
今回、森監督は佐村河内守氏を題材に、二重三重のFAKEを張り巡らし、映像とそこにうごめく人たち、マスメディアに対して“映像の持つ真実とは何ぞや”というメッセージを送ったように感じた。
でも、映像というのは実に残酷なものでもある。
その意味で「FAKE」のラストは確かに衝撃的である。これは言わないのが最低のマナーだから触れませんが、本作の発表により大衆の面前で佐村河内氏が音楽を披露することは、もう絶対にあり得ないだろうと私は確信した。
何が真で何が嘘か、世の中そんな単純なものでもない「FAKE」の中の真実とは?
オウム真理教を追った作品以来長く沈黙していたドキュメンタリー映像作家の森達也監督が15年振りに完成させた「FAKE」が公開された。
これが、ドキュメンタリー映画を考えるうえで、とんでもなく面白い作品だった。
本作は、現代のベートーヴェンとマスコミからもてはやされ、ゴーストライター騒動で一挙に奈落の底に突き落とされた難聴の作曲家佐村河内守氏の事件後の姿を取材している。ところが、森氏が常に厳しい眼を注いできたマスコミの在り方と同様に森氏もバラエティ的のりで作ってしまったドキュメンタリーフェイクの映像作品というところがミソだ。
ドキュメンタリーと銘打った作品でも、ずっとカメラを回しっぱなしにしているわけではない。撮影する内容、日時は監督と被写体となる人との打ち合わせによって決められている。本作も佐村河内守氏を被写体として1年間余りを追っているが、撮影は月1回なり、2回ぐらいしか行われていないように感じた。目的があって制作しているのだから、撮影、編集の段階で監督の恣意的なものが加わるのは当然のこと。映像には監督の作為が入るのだから、事象は写せても、真実は写せないということが本作からよくわかった。ドキュメンタリーも、ある意味、監督が作った虚構の世界なのだ。
タイトルの「FAKE」の言わんとする意味は重い。
ようは観る側がどのように解釈し判断するかだ。これはドキュメンタリーであろうがなかろうが映画であろうがなかろうが、映像に対して本来持つべきスタンスだ。
今回、森監督は佐村河内守氏を題材に、二重三重のFAKEを張り巡らし、映像とそこにうごめく人たち、マスメディアに対して“映像の持つ真実とは何ぞや”というメッセージを送ったように感じた。
でも、映像というのは実に残酷なものでもある。
その意味で「FAKE」のラストは確かに衝撃的である。これは言わないのが最低のマナーだから触れませんが、本作の発表により大衆の面前で佐村河内氏が音楽を披露することは、もう絶対にあり得ないだろうと私は確信した。