●ベッチー的映画三昧日記
「共感出来ないダメ人間なのになぜか心引く存在」
2010年の芥川賞作家西村賢太は、その異色の経歴、言動、容貌から平成の無頼漢と呼ぶに相応しい。私小説作家を自認する彼の受賞作「苦役列車」が「マイ・バック・ページ」の山下敦弘監督により映画化された。
昭和時代の終わりを告げようとしていた1986年、西村賢太自身がモデルの主人公北町貫多(森山未來)は19歳だった。父親が性犯罪事件を起こしたことにより一家は離散し、彼も中学卒業後日雇い労働をしながらその日暮らしの生活を続けてきた。
人目を避け、孤独を紛らわせるため酒と風俗におぼれる毎日の中、ある日現場へ行く送迎バスで自分と同年齢の専門学校生の日下部正二(高良健吾)に話しかけられる。貫多は卒業後初めて友だちと呼べる人間を得、友と過ごす時間が貫多の孤独な心に変化を与える。一目ぼれした古本屋のアルバイトの桜井康子(前田敦子)とも正二の手助けで、友だちになることができた。三人での楽しいとき、しかし、そんな時間も長くは続かなかった。結局、彼の屈折した暴言や振る舞いに、彼らは次々と去って行く…。
見た目にも体重を増量させ西村賢太をビジュアル的に意識した森山未來のダメ人間ぶりの演技が秀逸。心底本編で描かれる貫多って人間は本当にクズで嫌な奴だと思った。自暴自棄でこんな屈折した性格では、友だちが出来なくて当然で共感できない人物だと思った。ところが、見終わって時間が経って、なぜかしょうがない奴だけど、自分の中で貫多が気になる存在として残っていることに気づいた。
それは、誰もが人をねたみ、他人と比べて自分の存在を確認する。本当は貫多のような面を潜在的に持っているからだ。だからと言って、社会規範を物ともしない貫多のようなある意味プリミティブな人間ばかりになったら、日本の社会はどうなるのだろうか、想像すると怖くなる。
そんなことを山下監督も考えたかどうかはわからないが、原作では登場しないヒロイン桜井康子を創作したことで、本作が救いのない退廃的物語から少し青春映画っぽい体裁を整えることが出来た。
原作の大きな変更となり賛否が分かれるところだが、私はラストの仲良かった頃の3人のイメージカットに絶望ではなく、一筋の光を見た。
「共感出来ないダメ人間なのになぜか心引く存在」
2010年の芥川賞作家西村賢太は、その異色の経歴、言動、容貌から平成の無頼漢と呼ぶに相応しい。私小説作家を自認する彼の受賞作「苦役列車」が「マイ・バック・ページ」の山下敦弘監督により映画化された。
昭和時代の終わりを告げようとしていた1986年、西村賢太自身がモデルの主人公北町貫多(森山未來)は19歳だった。父親が性犯罪事件を起こしたことにより一家は離散し、彼も中学卒業後日雇い労働をしながらその日暮らしの生活を続けてきた。
人目を避け、孤独を紛らわせるため酒と風俗におぼれる毎日の中、ある日現場へ行く送迎バスで自分と同年齢の専門学校生の日下部正二(高良健吾)に話しかけられる。貫多は卒業後初めて友だちと呼べる人間を得、友と過ごす時間が貫多の孤独な心に変化を与える。一目ぼれした古本屋のアルバイトの桜井康子(前田敦子)とも正二の手助けで、友だちになることができた。三人での楽しいとき、しかし、そんな時間も長くは続かなかった。結局、彼の屈折した暴言や振る舞いに、彼らは次々と去って行く…。
見た目にも体重を増量させ西村賢太をビジュアル的に意識した森山未來のダメ人間ぶりの演技が秀逸。心底本編で描かれる貫多って人間は本当にクズで嫌な奴だと思った。自暴自棄でこんな屈折した性格では、友だちが出来なくて当然で共感できない人物だと思った。ところが、見終わって時間が経って、なぜかしょうがない奴だけど、自分の中で貫多が気になる存在として残っていることに気づいた。
それは、誰もが人をねたみ、他人と比べて自分の存在を確認する。本当は貫多のような面を潜在的に持っているからだ。だからと言って、社会規範を物ともしない貫多のようなある意味プリミティブな人間ばかりになったら、日本の社会はどうなるのだろうか、想像すると怖くなる。
そんなことを山下監督も考えたかどうかはわからないが、原作では登場しないヒロイン桜井康子を創作したことで、本作が救いのない退廃的物語から少し青春映画っぽい体裁を整えることが出来た。
原作の大きな変更となり賛否が分かれるところだが、私はラストの仲良かった頃の3人のイメージカットに絶望ではなく、一筋の光を見た。