つれづれなるまま映画を観て過ごす「ベッチーの映画三昧日記」

映画検定1級のベッチーのベッチーによるベッチーのための映画館鑑賞記録gooブログ。
コンテンツ:ベッチーの映画三昧日記

「ノア 約束の舟」

2014-06-17 18:01:44 | goo映画レビュー
●ベッチー的映画三昧日記

 「いつの時代の話なのか、途中から今日的ドラマになってしまった感じ」


 「ノア 約束の舟」は旧約聖書の「ノアの箱舟」の物語を映画化した作品だ。聖書という題材からか、これだけのスペクタクルにとんだお話なのに、今まで「ノアの箱舟」が描かれた映画は1エピソードとしてだが、J・ヒューストン監督の「天地創造」くらいしか思い浮かばない。

 その聖書の物語を「レスラー」、「ブラック・スワン」など少し屈折した人間洞察力を持つダーレン・アロノフスキー監督が作ったのだから、映画が論争の的になったのは当然の帰結といえる。ダーレン・アロノフスキーは子どもの頃から「ノアの箱舟」に興味を持っており、彼としては念願の映画化だったようだが、少しドラマチックに描きすぎたようだ。
 
 まず、ラッセル・クロウが演じたノアがある意味とてもアブノーマルな男になっている。
 ある夜に見た夢によって、神が増えすぎ、悪事を重ねる人間を滅ぼすために大洪水を起こすことを知り、巨大な箱舟を作り始める。それは神の啓示にしたがい、動物たちを救い、新しい世界へ生かすためということで、自分たちは動物を世話するために舟に乗るが、人間は自分たちの代で滅びるべき存在だと信じている。そのまっしぐらぶりは頑固親父というより狂信的で、家族の誰の意見も聞かない。
 まぁ、封建制度以前の昔の話だから当然と言えば当然だが、それ故に妻(ジェニファー・コネリー)や息子たちとの間に軋轢を生んでしまう。人間の善悪を問う本質の部分が、ここで急にファミリードラマのような俗っぽい展開になってしまった感がする。ノアの対極の存在であるハベル・カイン(レイ・ウィンストン)を介してノアの行動にいまひとつ納得がいかない二男(ローガン・ラーマン)とノアの確執などを盛り込み物語を血よりも人間は本能的な動物だとの主張を格調高く作ろうとした意図はわかるのだが、途中からどうも現代ドラマを観ている様な感じになってしまった。
 でも、ダーレン・アロノフスキー監督のことだから、聖書を今日的物語として作ったのかもしれないし、どちらの意図を持って作ったのかはわからない。

 本作で一番の収穫はノアの養女で長男(ダグラス・ブース)の嫁となるエマ・ワトソンの成長ぶりだ。「ハリー・ポッター」シリーズでの呪縛を解かれ、ファニーフェイスながらも「マリリン7日間の恋」や「ウォール・フラワー」など難しい役に意欲的に取り組み、子役3人の中で頭ひとつ抜きに出た活躍をしている。これからどのような演技を見せていってくれるのか楽しみな女優になった。

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「アクト・オブ・キリング」

2014-06-13 19:19:10 | goo映画レビュー
●ベッチー的映画三昧日記
 「げに恐ろしや 我らが振る舞い」

 映画館へ行くまでは大量虐殺を描いたドキュメンタリーということしか頭に入っていなかったので、カンボジアのポルポト政権下の話かなと思っていた。ところが、このような虐殺事件があったと自分の記憶になかったインドネシアでの出来事だったのに驚いた。
本作の特徴はインドネシアで起きた1965年の軍事クーデター未遂に端を発した100万人とも言われる共産党員大虐殺の模様を、当時の加害者の視点から描いている点だ。
 しかも、当時の実行者自身が主演して、虐殺を再現する映画を歴史記録作るという形を取り、そのメーキングフィルムが本ドキュメンタリーとなっているところがミソ。

 語り部になるのは、民兵として虐殺を実行したアンワル・コンゴという老人だ。彼は「プルマン」と呼ばれるインドネシアのヤクザ組織のリーダーで、彼らが民兵として政府に代わって共産党員を抹殺したという。しかもプルマンの一部はその後政権の中枢を占め、今も政府内で大臣等の重職に就いているというから驚く。

 本作で一番印象深かったのは、映画の冒頭と最後で、アンワル・コンゴの表情が違う点だ。映画の冒頭、自分たちが行ってきた虐殺に何の罪の意識もなく、ヒーロー気取りで語るアンワルの顔は、自身に満ち、いかにも昔は恐持てで名を成したであろうという感じだった。ところが、自分がやって来たことを再現していく過程の中で、彼の中で何かが確実に変わっていく。目の鋭さは失せ、顔つきも語り口も普通の老人のように弱弱しくなる。映画はアンワル・コンゴが冒頭で共産党員殺害の現場として自慢げに案内したビルの屋上を再び訪れるところで終わる。しかし、そこにいるのは過去の記憶を自慢げに語る男ではなく、ただ嘔吐し続ける男の姿だった。

 本作に流れるテーマはある意味、ナチスの戦犯を扱った「ハンナ・アーレント」と同じものだ。それは人間が無意識のもとに罪を犯すことが出来る動物だと言うこと。社会というものが統制するということが規範になっている以上、そこに上下の力関係が生じ、権力が生まれるために暴力が介入する。我々人類の永い営みはその繰り返しであり、今もその途上であることは歴史が物語っている。それらを単純な善悪の問題で片付けることが出来ないということもわかっている。

 映画の中で、ときどき挿入される女性たちが踊る映像が、極楽浄土のように美しいのが、かえって人間の罪深さを象徴するようで痛ましい。


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「万能鑑定士Q モナ・リザの瞳」

2014-06-04 19:30:24 | goo映画レビュー
●ベッチー的映画三昧日記
 「邦画にしては良い展開のミステリーだったが、ラストが…いかん」

「ダ・ヴィンチコード」以来のルーブル美術館全面協力の映画で、もちろん日本初のルーブル美術館ロケ作品という触れ込みの綾瀬はるか主演の「万能鑑定士Q モナ・リザの瞳」。
 モナ・リザに隠された謎を追うという話だからフランスが物語の舞台と思ったら、ルーブルでの撮影シーンは10分もない。

 ある事件で驚異的な鑑定能力を示した凛田莉子(綾瀬はるか)は、40年ぶりにフランス・パリのルーブル美術館から来日することになった「モナ・リザ」の警備強化のため、臨時学芸員に推薦される。世界中から集められたるルーブル美術館での採用テストにも受かり、もう一人の日本人合格者流泉寺美沙(初音映莉子)とともに連日「モナ・リザ」について学ぶ厳しい研修が始まる。しかし、「モナ・リザ」についての知識が深まるにつれ、莉子は謎の頭痛に襲われ、今までもっていた鑑定能力が失われて彼女は失踪してしまう。その簡に「モナ・リザ」は訪日し、展覧会は大盛況となる。そのような中、思わぬ黒幕によって大事件が勃発する…。

 綾瀬はるか演じる凛田莉子は、驚異的な鑑定眼と記憶力を持ち「万能鑑定士Q」としてジャンルを問わず鑑定をする店を開いている。原作は松岡圭祐の人気ミステリー小説「万能鑑定士Qの事件簿」で、既に何冊も出されているシリーズの第9巻にあたる話の映画化だ。映画化にあたりモナ・リザに関わるミステリーに絞りたかったのだろう。主人公の凛田莉子がどのようにして驚異的な力を得たのか、なぜ万能鑑定士となったのか等、シリーズ物語のプロローグ的なことは意識的に省いたのか、あまり描いていない。そこで、いきなり超能力者のような主人公と対峙する原作未読者にも現実感がない話と思われないように、冒頭数分のエピソードで主人公がどのような能力を持っているのか手際よく見せている。それを主演の綾瀬はるかの天然キャラクターにより、さも有りそうな話に力技で持っていってしまった。シリーズものの導入部としては非常に上手い運び方だ。

 物語が進むに連れ、少しずつ莉子の過去も明かされるが、それは本当に必要最小限の描き方で、話はもっぱら「モナ・リザ」をめぐる歴史上の謎をからめたミステリーに徹している。日本映画にしては中盤まで結構ミステリアスで先読みできない展開の作品となっていたが、最後の最後がいただけない。これだけの大仕事を緻密な計画を立てて実行した犯人たちが、肝心の「モナ・リザ」をあのように時間をかけて始末するわけがない。目撃者はたてているのだから、時間をかけず直接絵に火をかければ済む話だ。しかもちゃんと消失するまで確認しないとは有り得ない。私なら火をつけたあと何とか防ごうとする松坂桃李のアップでカットを切り、次はアジトを特定し駆けつけた警察と綾瀬はるかにつなぎますけど。その方がミステリー度が高まるのに…。

 でも本作がヒットすれば、このシリーズ、続編映画化されそうな気がする。
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