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AIで雇用代替、日本が突出 アジアの14カ国・地域で  202404

2024-04-08 22:49:00 | ¿ はて?さて?びっくり!

AIで雇用代替、日本が突出 アジアの14カ国・地域で
  Kyodo より 240409


AIで自動化される雇用の各国・地域別比率


 【シンガポール共同】生成人工知能(AI)に奪われる雇用の割合がアジアの14カ国・地域で最も高いのは日本だとする試算が8日、公表された。AIで代替可能な事務的な仕事が雇用に占める割合が最も多いためとしている。

 東南アジア諸国連合と日中韓(ASEANプラス3)による域内経済の調査監視組織「AMRO」が、ASEANプラス3と香港を対象に試算した。日本はAIで自動化される可能性の高い雇用の比率が14.4%と突出していた。

 日本に続いたのは同様に事務的な仕事の多い香港(9.5%)や韓国(9.1%)で、ラオスやベトナムは逆に1%台と低かった。

 AMROは「精度の高い見積もりというわけではない」としつつも、日本では事務的な仕事が20%と他国の1~12%に比べ高いことが要因と説明した。

 逆にAIにより増えそうな雇用の割合は、シンガポールが26.0%でトップと試算。ブルネイやマレーシアが続き、日本は9.2%で8位だった。


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☂️🚙〜イオン久御山↩️〜Alp〜> 240408

2024-04-08 20:58:00 | 📖 日記
☁️🚶…右岸堤防道🌸/河川敷道…隠元橋↕︎↩️

☂️🚙👫〜イオン久御山:📱📚🥦🍜🐙🍦〜Alp🥦🍱🥤🍬〜>
🚶11714歩

☁️☂️隠元橋18℃: 微風

🌸駐屯地満開見頃にまつり早すぎ残念

イオン📱妻スマホ機種変,
   私:機種変予約512GB…未定手間増
 (在庫無アップル直)

📚百人一首図鑑,日本の最強7大神社

久々🍜神座,🐙築地














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京都はなぜ江戸時代になっても廃れなかったのか、千年の都を救った「1人の男」 202404

2024-04-08 01:06:00 | 📚 豆知識・雑学

京都はなぜ江戸時代になっても廃れなかったのか、千年の都を救った「1人の男」
 ダイヤモンド Online より 240408  黒田 涼


 観光名所である京都・嵐山。桂川に架かる渡月橋を今の位置に架けたのも、角倉了以といわれる Photo:PIXTA

 江戸時代初期、幕府が江戸に開かれて政治の中心は江戸に移った。実権も財力もない天皇と公家が残っただけなのに、その後の京都は奈良のように寂れてはいかなかった。どうしてだろう?
 それはある商人が仕掛けた大規模インフラ整備で、「京都」が文化・商業都市として改めて誕生したからだ。彼の名は角倉了以(すみのくら・りょうい)。その開発事業のおかげで、幕末維新の舞台もお膳立てされたと言っていい。(作家 黒田 涼)

⚫︎政治力も財力もなくなった「平安京」
 戦国時代終わりごろの京都は、現代の京都とはもちろん、平安京時代の京都とも大きく異なる姿だった。

 建設当時の平安京は東西約4.5キロ、南北約5.2キロと広大な都だったが、朝廷の権威が落ち、応仁の乱など戦乱で荒れ果てると、戦国時代末期には現在の左京北部の上京地区と南部の下京地区に離れて小さな市街地が残るだけになっていた。

 人口は戦乱などで増減し、5万人から15万人の間と推計されている。当時の山口や堺・博多よりやや多い程度だ。

 天皇は京都に住み続け、織田信長は二条城を築き、豊臣秀吉も聚楽第と呼ばれる邸宅を築いて拠点としたが、秀吉は政治の中心を大坂城、のちに伏見城に移し、諸大名も大坂や伏見に屋敷を構えた。

 徳川の世になると、幕府は大名と天皇・公家の結びつきを恐れ、大名が京都に入ることを禁じた。秀吉時代から商業の中心も大坂に移った。こうして京都は、「天皇と公家が住んでいる」というだけの町になった。

 昔のように大荘園を持つわけでもない天皇や公家に財力はなく、大勢の武士が行き交うこともなくなった京都は経済的魅力に乏しく、奈良のように寂れてもおかしくなかった。

⚫︎京都経済を救った!角倉了以のインフラ工事
 ここで京都の衰退に危機感を抱いた男が立ち上がる。角倉了以(すみのくら・りょうい、1554~1614年)である。

 了以は土倉、今で言う金融業を営んでいたが、その資金で東南アジアなどとの幕府公認の朱印船貿易に参加し、安南(今のベトナム)との交易で莫大な利益を上げる。京では茶屋四郎次郎、後藤庄三郎と並ぶ三長者と言われるまでになるが、了以が偉いのはここから。

 財を築いた了以は、なんと私費を投じて大堰川(桂川)の開削工事を幕府に申請したのだ。桂川の亀岡~嵐山間は、今も保津峡下りとして激流下り、奇岩鑑賞を楽しむ場所だが、当時も岩などに阻まれて船が行き来できない場所だった。

 そのため、丹波から京への物資は大枝山を越える老の坂を歩くしかなく、陸路のみでは大量の物資は運べなかった。大枝山は鬼退治の「大江山」のモデルの場所ともいわれ、今でも国道9号、京都縦貫道はその近くを通る。

 了以は1606年、船の通航の邪魔になる岩を除いて舟運を可能にする工事を進める。自らツルハシを振るって岩を砕き、あるいは火で焼いてから水をかけて割り、浅瀬を掘り、急流をならした。川をさかのぼるときに川岸から船を綱で引くための道も切り開いた。

 その結果、丹波の木材、炭、穀物などがスムーズに京都に運び込まれることとなり、京都経済に大いに貢献した。

 またこの工事の際、渡月橋は現在の場所に架け替えられ、上流にある葛野大堰(かどのおおい)も整備されたと思われる。この堰(せき)は古代に秦氏が京都盆地の灌漑(かんがい)のために造ったものだが、大堰川の水位を上げ水運に役立った。

⚫︎高瀬川を造った了以
 さらに了以の事業は続く。

 大堰川の成果を見た幕府から富士川の改修工事を命じられて完成させた後、今度は鴨川沿いの高瀬川開削を計画する。

 京都東側の鴨川は普段は水量が少ないものの、大雨になると急に増水し土石流が起きるなど、暴れ川で水運には向かなかった。

 了以は、訪問先の備前国(現在の岡山県)で高瀬舟という船を見る。喫水(船底から水面までの距離)が浅いこの船は、水量が少なくても岸から引いて荷物を運べた。これなら小さな水路で物資を運べると直感した了以は、この高瀬舟を運航させる水路を鴨川沿いに造れば、画期的に水運が楽になると思いつく。

 了以は鴨川の水を京都の北で市街に引き入れ、鴨川と並行した小水路を伏見まで完成させる。1614年のことだ。

 この工事で、淀川をさかのぼった物資はそのまま京都市街に船で運べるようになった。さらに上京と下京の連携も良くなった。これで京都が生き返った。

 高瀬川が開かれたのは、実は平安京の範囲外。このときに桓武天皇が造った「平安京」の枠組みを離れ、新しい「京都」の街が造られたと言ってもいいかもしれない。

 京都観光で思い浮かぶ繁華街は、木屋町や先斗町だろう。これらは皆、了以が開いた高瀬川沿いである。木屋町というのは、元々は材木商の街という意味だ。

 高瀬川の完成を見届けたかのように了以は亡くなった。角倉家は明治維新まで大堰川の水運通行料などで繁栄する。ちなみに日本画家の千住博、作曲家の千住明、バイオリニストの千住真理子の三きょうだいは子孫である。

 政治の中心が去り、経済の繁栄も他に移りそうになった京都の危機の時代、都市インフラを充実させて、新たな繁栄の基礎を築いたのが了以なのだ。

 古くからの歴史と文化を背景に、京都は江戸時代も「三都」として大都市の地位を保つことができた。京都では「水運の父」として今も恩人とされている。

⚫︎人流も活発に、維新の志士たちも集う
 京都市役所のすぐ東には、高瀬川の「一之船入」が唯一残る。かつては高瀬川から分かれ、物資を荷揚げする船入が京都市内に9カ所もあった。

一之船入跡近くに置かれた高瀬舟=京都市中京区 Photo by Ryo Kuroda
 了以の邸宅は一之船入辺りにあったという。復元された高瀬舟が船入脇に置かれている。

 かつての川べりはほぼ歩いて行ける。街路樹が植えられ、水を見ながらのカフェやホテル、店舗などが多く、趣がある。

高瀬川の川べりにある飲食店=京都市中京区 Photo by R.K.
 水路の中には切り込みが入った石柱が時々あるが、これは切り込みに板をはめ込んで川の水かさを上げる仕組み。高瀬舟の運航をスムーズにした。

 歩いていると、「坂本龍馬寓居趾」「佐久間象山寓居趾」「武市瑞山先生寓居跡」などとやたら幕末の志士たちの活躍場所であることを告げる石柱が立っている。

 有名な池田屋騒動のあった池田屋も高瀬川からすぐ。さらに「長州屋敷址」「土佐藩邸跡」「彦根藩邸跡」などの諸藩邸跡の表示も多い。

 これも高瀬川のなせるわざ。川のおかげで物資だけでなく人の流れも良く、情報のやりとりに便利だった。

 いざとなれば船で伏見、さらには淀川を通って大坂まで逃げられる。繁華街だから隠れ家には事欠かない。人の出入りも多いから、幕府のお尋ね者でも安心だ。

 諸大名の入京禁止が幕末に解かれると、彼らは競って藩邸を高瀬川沿いに置いた。交通至便で情報がやりとりしやすいこの場所で、多くの密談や政治交渉が行われたことだろう。

 こう見ると、幕末の志士の活動場所も了以が用意したことになる。明治維新の功労者の一人と言っては言い過ぎだろうか。

今も了以の像が見守る大堰川
 了以が整備した京都・嵐山の渡月橋から、観光客でにぎわう桂川北岸ではなく、南側の静かな遊歩道を歩いていくと、対岸の喧騒(けんそう)がうそのような静かな道が続く。さらに山中に続く道を上っていくと大悲閣千光寺がある。

 大堰川開削はわずか半年ほどで完成したが、難工事で多くの犠牲者が出た。彼らを弔うための寺が大悲閣だ。

 了以は遺言で、自らの像を作り、ここに置くように指示する。

 その表情は独特だ。眉をつり上げ、口をへの字に曲げ、どこかをじっと凝視している。怒りとは違う、強い意思を秘めた表情だ。そして手には大きなツルハシを抱える。

 自身が開いた川を、永遠に見守ろうとの思いだろうか。あるいは京都の未来を見据えているのか。大悲閣からは、眼下の大堰川と遠く京都市街が望める。
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