*宮本研作 小笠原響演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋ホール 22日で終了 劇団公演の過去記事はこちら→1,2,3 25日からは劇団文化座でも同作品の上演がはじまる。
1945年8月、敗戦が目前に迫った九州・大牟田の軍需指定工場が舞台だ。もともと三池炭鉱の石炭をもとに染料を作っていたが、いまでは石炭を化学変化させて、薬品や爆弾を製造する工程のひとつ、「反応工程」の現場になっている。学徒動員された若者たち、叩き上げのベテラン工員、その娘、監督教官や憲兵などが繰り広げる戦時下の青春の日々である。
宮本研自身に学徒動員の体験があり、病気で郷里に帰されたがゆえに空襲を逃れたという。何人もの友人が命を落としたなかで、生き残ってしまったことへのうしろめたさはいかばかりかと想像する。創作のエネルギーとは、「これを多くの人に伝えたい、知ってほしい」というまっすぐな情熱はもちろんあるだろうが、ときには逆に「これだけは言いたくない」と封じている思いもあるはず。それを書き記すとは、どういうことか。
ベテランから中堅、若手まで幅広い年齢の俳優が出演するが、実際に戦争を体験した者は、演出の小笠原響ふくめ、誰もいない。2014年1月18日付朝日新聞「第一次世界大戦の遠近法」④に、立教大学教授の生井英考氏が次のように述べている。「兵士は身体経験を通した記憶を証言できる。半面それは微視的で、『なぜ戦争が起きたか』という巨視的な歴史の再構成には向かない」と。
観劇した日は、演出の小笠原と出演俳優が登壇するアフタートークが行われた。客席に質問や感想を求められ、5歳で敗戦を迎えたという男性から次のような感想があった。(少々記憶があいまいだが)戦争に反対し、平和を願う詩の朗読をしておられるとのこと。そのグループには90歳を超える方もあるが、「戦争についての詩は、あまりに身近すぎて取り上げたくない」と言われるのだそうだ。実際に体験した方の生の声には、有無を言わさぬ迫力と現実味がある。体験していないこと、知らないことは、絶対的である。しかし、そこを一歩飛び越えて、あのときの若者、叩き上げの労働者、脱走兵、その家族の気持ちを懸命に想像し、みずからの声とからだで表現することに、きっと実りはあるはずだ。それを感じ取るためには、客席のこちらもしっかりしなければならないけれども。
実を言うと、今回の上演における俳優の演技、人物の造形が戯曲に対して適切であるのか、よくわからないのである。それぞれ自分の持ち場を誠実につとめ、よい舞台を届けたいという熱意は伝わってくるが、演技の熱量が強いあまり、表現しきれないところもあるのではないか。紀伊國屋ホールは、観客にとって決して見やすい劇場ではなく、後方座席になると俳優の表情の微妙な変化など、じゅうぶんに味わえない点もある。またもう少し抑制の効いた台詞をじっくり聞きたかったと思う。
劇団では演劇と社会をつなぐ新しい動きを起こすべく、「俳優座『反応工程』を成功させる会」を結成した。映画監督の山田洋次氏、SEALDsの奥田愛基氏はじめ多くの賛同者が一堂に会するキックオフイベントや、金子兜太氏の選定による「平和の俳句」の募集も行った。28日には委員会の解散式が行われる。これは公演終了のねぎらいだけではなく、『反応工程』に取り組んだ俳優座の意志を再確認し、協力者への感謝とさらなる活動に向けて志をあらたにする機会と思われる。
小笠原響の寄稿に、いま座組みで「若」と呼ばれている文字通り若手の俳優たちが「若」でなくなっても、新しい「若」たちとともに演劇に取り組んでほしいとの願いが記されている。
客席に身を置く立場からも同感だ。俳優座のレパートリーのひとつとして、毎回本式の上演は無理でもリーディングや、稽古場公演などを通して、宮本研作品の上演、俳優の訓練の場として継承されんことを。
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