因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

劇団文化座+劇団東演 戦後70年共同企画『廃墟』

2015-05-30 | 舞台

*三好十郎作 鵜山仁演出 公式サイト→文化座 東演  6月1日まで文化座アトリエ 6月7日佐賀市文化会館 6月12日~23日東演パラータ
 副題の通り、戦後70年の節目を迎えた今年、文化座と東演が共同企画した。両劇団の俳優が共演し、演出には文学座の鵜山仁を迎える。それぞれの本拠地、さらに劇作家ゆかりの地である九州は佐賀市でも上演する。2月の終わりに見た『稲葉小僧』に感銘を受け、迷わず足を運んだ。

 敗戦直後の焼け跡にかろうじて残った家に暮らす歴史学者の柴田一家が深刻な食糧不足をはじめ、困窮する日々の暮らしのなか、父と息子、兄と弟の思想が激突し、そこに叔父や女たちの思いが絡む壮絶な論争劇だ。15分の休憩をはさんで3時間の大作。70年前の人々の物語を通して、戦後のこの国のあり方を問いかける企画であり、劇団の枠を超えた舞台に期待とともに緊張が高まる。戯曲は青空文庫で、解説も読めます。

 『廃墟』は2011年4月、つまり東日本大震災から1ヶ月後に一度見る機会が与えられた。時間堂の黒澤世莉の演出で、劇場は池袋のシアターKASSAI。休憩なしの2時間30分、一本勝負で上演された。そのときの記事を読みかえし、この重厚で痛ましい作品に若手演劇人が徒手空拳で力いっぱいぶつかった印象がまざまざと蘇った。まさに「対戯曲」、演出家、俳優、スタッフが総力を挙げて、死にもの狂いの上演であったはずである。しかし演出の黒澤世莉は開演前、「長いお芝居なので、どうかリラックスして」と穏やかに挨拶し、作り手側の労苦を感じさせなかったため、こちらも少し気が楽になったことを思い出す。

 対する文化座+東演は、いわゆる新劇系の人材、経験値、ノウハウが遺憾なく発揮されて安定感がある。文化座のアトリエは決して広いものではないが、天井は高く、奥行きも十分あり、柴田家の生活スペース部分のテーブルや椅子、台所などの水回りまで、生活実感が伝わる細かい作りである。しかし正面奥に見えるのは崩れかけた壁であろうか、どこか抽象的でもあり、人々が暮らす廃墟が外界から隔離されたかのような孤立感が漂う(舞台美術/乘峯雅寛・文学座)。俳優は若手、中堅、ベテランが揃い、人物の年齢に合わせた俳優が配されて、自然にすんなりと劇世界を受けとめることができる。

 戦争責任をめぐる父と息子たちの論争が縦糸、事情があって、柴田家に「かかりうど」(家政婦の古い言い方)として暮らしているせい子という女性をめぐる愛憎が横糸になる。夫のある身だが、戦地から帰って来た夫とうまくゆかず、空襲で焼け出されたこともあって、兄が柴田教授の教え子だった縁からこの家に厄介になっているということだが、不意の来客から「奥さまですか?」と言われるほど甲斐甲斐しく教授の世話を焼く。長男の誠はせい子を好いており、早くいまの夫と正式に離縁してほしいと願っている。せい子もまたそれに応えたいらしい。だが、柴田教授の弟の三平と一時期ねんごろであったり、次男の欣二は「あの人はお父さんに惚れている」と言われたりする。
 なるほどせい子はいかにも薄幸の人妻の風情があり、こんな女性とひとつ屋根の下に暮らしていれば、そんな気になるのも無理はない。かと思うと、教授の教え子が持ってきた心づくしのじゃがいもを、大工のおかみが借金のかたに奪い取って行ったのを追いかけ、取り返そうとするたくさましさも持ち合わせている。戯曲には年齢が明示されていないが、20代後半から30代前半であろうか。

 時間堂では百花亜希がせい子を演じた。華奢で可愛らしく、人妻というにはいささか幼い印象すらあったが、じゃがいもを取りかえしに行く場面でたしか「ちくしょう!」と叫んで駆けだしたり、血の気の多いところも見せる。
 今回は文学座の名越志保がせい子を演じた。着物やもんぺが違和感なく似合っており、「およっていらっしゃる」、「かかりうど」などの古めかしい言い回しもさらりとこなし、「和物」の所作がきちんと身についているところはさすがである。また無理な若づくりもしていないため、中年にさしかかった女房として受け止められる。叔父の三平からみればやや年下、長男の誠にとってはもしかするとひと回りくらい年上になるのかもしれない。
 せい子は複数の男性を翻弄しているといってもよく、といって、いわゆるあばずれにはまったく見えず、身持ちは固そうである。このぎりぎり感こそがこの女性の魅力であろう。名越は過不足なく演じており、てきぱきと立ち働きながら、終幕で次男の欣二から着物の片袖をちぎりとられたはずみに、脇のあたりがこぼれそうになるときなど、どきりとするくらいの色香を放つ。

 後半で、父親とふたりの息子が延々を大議論を戦わせる場面は、この作品の白眉である。時間堂のときもそうだったが、彼らの論理を頭で理解し、考えることは今回も早々に放棄した。空腹で希望の持てない日々に、家族がこのように諍うことはひたすら痛ましく思えたが、今回の舞台をみながら、もしかするとこの父子は、この論議こそが食べ物にまさる糧であり、生きがいなのではないか。論破され、手ひどく傷つけられても決して議論からリタイアしない。倒れても倒れても執拗に喰らいつく。このエネルギーを、たとえば新しい仕事を始めたり、家を建て直すなど、前向きなことに使えないのだろうか。

 しまいに父親は、テーブルに手斧を打ち込んでばったりと倒れる。前回は父はここで死んだのだと思い込んでいたが、今回の父はのどかとも聞こえるいびきをかいているではないか。戯曲には「失神しているらしい」とだけあるから、いびきは演出によるものだろう。この演出には賛否あるとは思う。劇中の音楽は(たぶん)モーツァルトのピアノソナタが控えめに数回流れるのみであった。とくに父の振り下ろした手斧が思い切りテーブルに食い込み、一堂凍りついたところに父がぶっ倒れ、いびきをかく。欣二がむせび泣く。この涙の意味は?そしてそこに柔らかく優しげなピアノが聞こえて暗転。

 場面の空気にまるでそぐわないピアノ曲だが、ここで場面の空気がふと和らぎ、情景がまるで額縁のなかに入ったかのように制止し、距離感をもつのである。さらに柴田家から食べものを盗み食いした浮浪者が事情もわからないまま、何度も頭を下げるすがたには微苦笑を誘われる。

 妹の双葉の台詞のひとつ一つが、まるで現在のこの国の人々に聞かせるために書かれたかのようにぶつかってくる。「自分の低さが結局日本人全部の低さじゃないかしらと思うもんだから」「みんな、みんな、ひどい事になってしまったけど、しかし、私たちが眼をさまして、自分の正体をハッキリ見るためには、こんな風になる必要が有ったんだわ。……どんなに苦しくても、しかし、私どもが憎んでもいない人たちと戦争をして殺し合っているよりも、まだ、ましだわ」。

 さまざまな法令が定められていき、国会の審議は議論にならず、少しずつだが着実に国のあり方が変わろうとしている。前回の上演は未曽有の大震災と原発事故の直後であり、三好十郎の『廃墟』は、上演する時代を選ばない。わたしたちは再びあやまちを犯そうとしているのではないか、不勉強や怠惰、無関心が取り返しのつかない悲劇につながることを、過去から学んだはずなのに・・・と背筋が寒くなり、目の前が暗くなる。

 しかし『廃墟』は見るものをただ反省させ、落ち込んだままにはさせない。長時間の上演、膨大な台詞に格闘する俳優のすがたの、何と力強く清々しいことか。「まだだいじょうぶだ」。何がどうまだだいじょうぶなのか自分でもはっきり言えないが、帰路に着く歩みは軽やかであった。芝居が時を追うのか、時が芝居を呼び寄せるのか。発表されてから数十年の年月を経てなお色あせず、見るたびに新鮮な『廃墟』に力をもらった一夜であった。

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2 コメント

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Unknown (劇団文化座)
2015-08-12 14:25:25
劇評ありがとうございます。
シェアさせて頂きます。
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感謝 (因幡屋(宮本))
2015-08-27 00:52:31
劇団文化座さま
劇団のfacebookに拙稿をシェアしてくださいましたこと、
御礼申し上げます。
わざわざコメントをいただき、恐縮しております。
返信が遅くなりまして申し訳ありません。
今後ともよろしくお願いいたします。
返信する

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