*世の中と演劇するオフィスプロジェクトM 丸尾聡作・演出 公式サイトはこちら サンモールスタジオ 東京公演は2月3日まで そのあと横浜(相鉄本多劇場)、長野(ネオンホール)、松本(ピカデリーホール)公演と続く。
タイトルの「残置物」という耳慣れない言葉にまず心が惹きつけられる。チラシやHPによれば失踪や自殺、孤独死などで世を去った人が「残し置いた物」のことを指す。家財道具や手紙や写真、その人がそこで過ごした痕跡だ。誰にも看取られずに亡くなった人の品々を処理し、部屋の清掃に従事する「残置物処理班」の人々を描いたのが本作である。
仕事に甘いものはない。それによってお金を得るのだから厳しいのは当たり前である。だからこそ誇りを持ちたい。達成感や喜びを感じたい。自分の仕事が社会の役に立っていることを、それによって喜ぶ人がいることを確かに感じ取りたい。それは給与や待遇で得られる満足とは違う手応えである。
《ここから少し詳しい記述になります。未見の方はご注意くださいませ。》
本作の特徴は、残置物処理をする側と、孤独死せざるを得ない状況に追いやられた側の両方を描いた点にある。前者にはベテランも新人もいる。辛く楽しくない仕事であることを承知の上で、関わる人の背景はひとりひとり違う。後者の背景も実に重たい。長いこと音信不通だった父親が孤独死した娘たちや親戚の心情は簡単に想像できるものではないだろう。作者はそのどちらの心も大事に思ったことが察せられる。それが舞台ぜんたいとして少し散漫になった印象がある。また扱う題材を舞台においてどこまでリアルに表現するか、どのような形で提示するかは難しいところであろう。今回は舞台に一段高い台を置き、残置物処理班の人々や遺族たちはその周囲を歩きながら、部屋にたどりつく。台の上には亡くなった人の家財道具がこまごまと置かれている。抽象的な部分と具体的な部分とが、もう一息解け合っていたら、舞台ならではの効果的な見せ方ができたのではないだろうか。もうひとつ気になったのは、俳優の演技がいささか戸惑うほどのハイテンションだった点である。
現実にあることを舞台で表現する方法にはいろいろあって、日常をそのまま切り取ったように淡々と、まさに「舞台にそのまま置く」かのような演出もあるし、歌やダンスを加えたり、抽象的な描き方をする場合もある。そのあたりのバランスの取り方は難しいだろう。前述のように、残置物処理という仕事、孤独死する人とその遺族の心情のどちらも重要で、両方を充分に描ききることは難しかったと思われる。もちろんひとつの舞台ですべてを描くことが必要なのではないが、それだけにもっと凝縮した描写があれば…
「残置物処理」という仕事を舞台で描くことには、業務内容の特殊性と携わる人の複雑な心情という点において、作り手側の意欲を大いに掻き立てる面があるだろう。しかしそれらが重たいだけに描き方は難しい。遺族も登場させるなら尚更であろう。と、同じことを繰り返す煮え切らない自分の記述に苛立つ。それだけ客席の自分も重たいものを受け取ったということだ。本作が自分の心に「残」し「置」いた「物」は何か。喜びや誇りを感じることが難しい仕事の辛さ、一人で死んでいく人がいるという社会状況、その人に関わる家族たちのやりきれない思い。その両者を繋ぐ何か。これらすべてのようでもあり、もしかしたら全く違う何かかもしれない。捨てたり破砕したりできない何か。厄介だがそれこそがこの舞台をもっと深く考える鍵であると思われる。
タイトルの「残置物」という耳慣れない言葉にまず心が惹きつけられる。チラシやHPによれば失踪や自殺、孤独死などで世を去った人が「残し置いた物」のことを指す。家財道具や手紙や写真、その人がそこで過ごした痕跡だ。誰にも看取られずに亡くなった人の品々を処理し、部屋の清掃に従事する「残置物処理班」の人々を描いたのが本作である。
仕事に甘いものはない。それによってお金を得るのだから厳しいのは当たり前である。だからこそ誇りを持ちたい。達成感や喜びを感じたい。自分の仕事が社会の役に立っていることを、それによって喜ぶ人がいることを確かに感じ取りたい。それは給与や待遇で得られる満足とは違う手応えである。
《ここから少し詳しい記述になります。未見の方はご注意くださいませ。》
本作の特徴は、残置物処理をする側と、孤独死せざるを得ない状況に追いやられた側の両方を描いた点にある。前者にはベテランも新人もいる。辛く楽しくない仕事であることを承知の上で、関わる人の背景はひとりひとり違う。後者の背景も実に重たい。長いこと音信不通だった父親が孤独死した娘たちや親戚の心情は簡単に想像できるものではないだろう。作者はそのどちらの心も大事に思ったことが察せられる。それが舞台ぜんたいとして少し散漫になった印象がある。また扱う題材を舞台においてどこまでリアルに表現するか、どのような形で提示するかは難しいところであろう。今回は舞台に一段高い台を置き、残置物処理班の人々や遺族たちはその周囲を歩きながら、部屋にたどりつく。台の上には亡くなった人の家財道具がこまごまと置かれている。抽象的な部分と具体的な部分とが、もう一息解け合っていたら、舞台ならではの効果的な見せ方ができたのではないだろうか。もうひとつ気になったのは、俳優の演技がいささか戸惑うほどのハイテンションだった点である。
現実にあることを舞台で表現する方法にはいろいろあって、日常をそのまま切り取ったように淡々と、まさに「舞台にそのまま置く」かのような演出もあるし、歌やダンスを加えたり、抽象的な描き方をする場合もある。そのあたりのバランスの取り方は難しいだろう。前述のように、残置物処理という仕事、孤独死する人とその遺族の心情のどちらも重要で、両方を充分に描ききることは難しかったと思われる。もちろんひとつの舞台ですべてを描くことが必要なのではないが、それだけにもっと凝縮した描写があれば…
「残置物処理」という仕事を舞台で描くことには、業務内容の特殊性と携わる人の複雑な心情という点において、作り手側の意欲を大いに掻き立てる面があるだろう。しかしそれらが重たいだけに描き方は難しい。遺族も登場させるなら尚更であろう。と、同じことを繰り返す煮え切らない自分の記述に苛立つ。それだけ客席の自分も重たいものを受け取ったということだ。本作が自分の心に「残」し「置」いた「物」は何か。喜びや誇りを感じることが難しい仕事の辛さ、一人で死んでいく人がいるという社会状況、その人に関わる家族たちのやりきれない思い。その両者を繋ぐ何か。これらすべてのようでもあり、もしかしたら全く違う何かかもしれない。捨てたり破砕したりできない何か。厄介だがそれこそがこの舞台をもっと深く考える鍵であると思われる。