*アーサー・ミラー作 小川絵梨子演出 公式サイトはこちら テアトルBONBON 10日で終了
2010年に小田島雄志・翻訳戯曲賞、2012年には読売演劇大賞において演出家として初めて杉村春子賞を受賞するなど、新進気鋭の翻訳家、演出家として注目されている小川絵梨子の舞台を、このたびようやくみることができた。翻訳者名が明示されていないが、少なくとも筆者が読んだことのある倉橋健版でないことはたしかである。客席は対面式になっており、観客に両側からはさまれた非常に狭い演技エリアが、路上やアパートの一室、弁護士のオフィスになる趣向である。
『橋からの眺め』はおそらくこれが2度めの観劇になる。最初は2006年劇団民藝の公演だ(菅原卓訳、兒玉庸策演出)。このときの舞台の印象が実ははっきりしないのだが、公演パンフレット記載の演出の兒玉庸策はじめ、翻訳家の喜志哲雄、作家の米谷ふみ子の寄稿を読みなおし、あらためてアーサー・ミラーという劇作家の思想がいかに深遠であり、劇世界や人物造形の複雑なことを思い知るのだった。
1999年にT.P.T.が演出にロバート・アラン・アッカーマンを迎えて上演した舞台は、残念ながらみることができなかった。当時まだ30代なかばだった堤真一が「がっちりして、やや太り気味」の40歳の港湾労働者エディを演じることや、その妻ビアトリスに久世星佳が配されていることなど、期待とともに不安要素も多かったのだが・・・。
ミラーの作品にはマツコ・デラックス風に言えば、「面倒くさい人」がよく登場する。人の話を聞こうとしない、思い込みが激しく、自分の尺度でしか相手をみない。そういう人がまわりを巻き込んでさんざん迷惑をかけたあげく、破滅する。痛ましいとは思うが、彼らに振り回される周囲の人々の困惑と消耗があまりに甚大であり、ついそちらに同情しがちであるし、もっと手厳しく諌めたり、ほかに助けを求めたり、効果的な解決方法をとらずに右往左往していることにまで腹立たしくなる。結果として物語は実に後味わるく、やりきれない思いで劇場をあとにすることになるのだ。
つまり劇中の人々に対して一体感や共感が抱けない。むしろ反発や困惑が強く、距離をもってしまうのだ。なのにミラーの作品にはどうしようもなく惹かれるところがあって、これはなぜだろう。
人々が暮す街にはさまざまな民族が住む。なかでも主人公のエディたちイタリア系の住人は同胞意識が強く、互いに助け合いながら、しかしこの貧しい生活から抜け出したいという願いを抱えている。エディが姪のキャサリンが職を得たとき、場所が気にくわないという。配管工や船乗りが出入りする会社などもってのほか、ニューヨークの法律事務所など、もっといいところ、もっとましな連中のなかに入れてやりたいというのである。港湾労働者として腕いっぽんで家族を養っている自分に誇りを持ちながら、姪にはほかの世界へ出てほしいと願う。矛盾である。それでキャサリンがホワイトカラーの世界で働くようになったら、それはそれで劣等感や疎外感を味わうことが予想され、「面倒くさい人」だなと思うのである。
エディは姪に対して尋常ならざる執着を示す。それは父親の娘に対する愛をとうに超えて男女の性愛であり、妻とは触れ合わず、妻はそれに対して苛立ちを募らせる。姪が恋をするイタリア人青年が同性愛者であると思い込み、しかしエディ自身のなかにも青年への同性愛的感情が存在するという、実にやっかいで一筋縄ではゆかない人物なのである。
今回の舞台がどのようなものであったかを記すべきなのだが、どうも筆が鈍る。この1本のみについて小川絵梨子の演出を考えるのはむずかしく、配役や俳優の演技について具体的なあれこれはあるけれども、そこにこだわるのはみるものの好きずきに収まってしまう。むしろ戯曲を何度も読みなおし、実際の舞台のさまざまを敢えて忘れて、劇世界の空気や人物の心情を考えてみよう。
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