*野坂実作・演出 公式サイトはこちら 下北沢駅前劇場 15日まで
2劇場同時上演の(祝)版をみる。亡くなった母トメの意志を継ぎ、通夜の今日も営業をしているレストラン。
☆数日前にみた(弔)の記事と合わせて、このあたりからご注意を☆
とはいえ、隣の通夜の料理に冷蔵庫の食材はほとんど使い切ってしまった。そこに「今日ここで婚約式をする」という女性が来店したからオーナー(関根信一/劇団フライングステージ)はじめ、スタッフたちは大慌て。家族たちは次々にやってくる、さらに婚約式どころか結婚式をサプライズで行うという別の女性もやってきて、しかもこの二人の女性の相手は同一人物らしく…?
多くの人物がひっきりなしに出入りすることもあって、登場人物の関係を把握するのが結構難しい。さらに数日前に見た(弔)版との関連もあってコメディを楽しむよりも、話を理解することにエネルギーを使う。客席を沸かせるのは、(弔)が妻を失って混乱している父(猪俣俊明)のマイペースぶりであり、(祝)では前半はレストランを切り盛りするゲイのオーナー、後半はわけあって無理矢理男性役を演じる関根信一の圧倒的な迫力である。さらに両バージョンともに、吉川アダム、米田弥央といったすらりとした長身の美女たちが混乱を収めようと、美貌をかなぐり捨てて奮闘するさまは天晴れ。
レストランの場面だけでも相当に情報の多い内容で、それが隣で通夜が同時進行していることによって、おもしろさが倍増するかというと、正直そこまで客席は(特に前半は)盛り上がらないと感じた。当たり前の話だが、(祝)の客席からは(弔)の舞台はみえず、想像力や記憶力を動員してもパズルがおもしろいようにはまっていく爽快感に達しなかった。さらに(弔)の終盤で父の隠し子(小山志保)が、やっと会えた父に向かって悪態をつく台詞に一瞬からだが凍りついた。憎しみと恋しさがないまぜになって混乱の末に感情が爆発してしまったのだろうか。それにしてもあの場面であの言葉がでることはあまりに重く、意味を持ちすぎるのではないだろうか。その答が(祝)にあるのではないかと思ったが、見つけられず。本題に直接大きく関わることではないのだろうが、この点が非常に疑問を感じるし、残念なのだった。
お通夜や結婚式は周りで少々のことがあっても執り行わねばならない。現実にはそこが大変なのだが、お芝居になって客観的な視点が与えられることによっておもしろくなり、しかし同時に痛ましくもあり、しみじみとした情愛を感じさせるものになる。どんどん簡略化し、因習にとらわれずある程度自由に行うことが許される現代においても人が生まれ、結婚し、最後には死んでいくことには変わりはない。儀式は意味を持つ。人間の営みに必要な何かがあるからこそ、連綿と続いているのだろう。
人にとって重要であり、芝居となるとネタの宝庫である「祝」と「弔」を、2劇場同時上演という大胆な試みで作り上げた心意気を堪能した。これが2回めのクロカミショウネンであるが、「次はまだまだおもしろいものを」をと、早くも欲が出ている。
2劇場同時上演の(祝)版をみる。亡くなった母トメの意志を継ぎ、通夜の今日も営業をしているレストラン。
☆数日前にみた(弔)の記事と合わせて、このあたりからご注意を☆
とはいえ、隣の通夜の料理に冷蔵庫の食材はほとんど使い切ってしまった。そこに「今日ここで婚約式をする」という女性が来店したからオーナー(関根信一/劇団フライングステージ)はじめ、スタッフたちは大慌て。家族たちは次々にやってくる、さらに婚約式どころか結婚式をサプライズで行うという別の女性もやってきて、しかもこの二人の女性の相手は同一人物らしく…?
多くの人物がひっきりなしに出入りすることもあって、登場人物の関係を把握するのが結構難しい。さらに数日前に見た(弔)版との関連もあってコメディを楽しむよりも、話を理解することにエネルギーを使う。客席を沸かせるのは、(弔)が妻を失って混乱している父(猪俣俊明)のマイペースぶりであり、(祝)では前半はレストランを切り盛りするゲイのオーナー、後半はわけあって無理矢理男性役を演じる関根信一の圧倒的な迫力である。さらに両バージョンともに、吉川アダム、米田弥央といったすらりとした長身の美女たちが混乱を収めようと、美貌をかなぐり捨てて奮闘するさまは天晴れ。
レストランの場面だけでも相当に情報の多い内容で、それが隣で通夜が同時進行していることによって、おもしろさが倍増するかというと、正直そこまで客席は(特に前半は)盛り上がらないと感じた。当たり前の話だが、(祝)の客席からは(弔)の舞台はみえず、想像力や記憶力を動員してもパズルがおもしろいようにはまっていく爽快感に達しなかった。さらに(弔)の終盤で父の隠し子(小山志保)が、やっと会えた父に向かって悪態をつく台詞に一瞬からだが凍りついた。憎しみと恋しさがないまぜになって混乱の末に感情が爆発してしまったのだろうか。それにしてもあの場面であの言葉がでることはあまりに重く、意味を持ちすぎるのではないだろうか。その答が(祝)にあるのではないかと思ったが、見つけられず。本題に直接大きく関わることではないのだろうが、この点が非常に疑問を感じるし、残念なのだった。
お通夜や結婚式は周りで少々のことがあっても執り行わねばならない。現実にはそこが大変なのだが、お芝居になって客観的な視点が与えられることによっておもしろくなり、しかし同時に痛ましくもあり、しみじみとした情愛を感じさせるものになる。どんどん簡略化し、因習にとらわれずある程度自由に行うことが許される現代においても人が生まれ、結婚し、最後には死んでいくことには変わりはない。儀式は意味を持つ。人間の営みに必要な何かがあるからこそ、連綿と続いているのだろう。
人にとって重要であり、芝居となるとネタの宝庫である「祝」と「弔」を、2劇場同時上演という大胆な試みで作り上げた心意気を堪能した。これが2回めのクロカミショウネンであるが、「次はまだまだおもしろいものを」をと、早くも欲が出ている。
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