*公式サイトはこちら 寺山修司作 扇田拓也(ヒンドゥー五千回)演出 シアタートラム 4日まで
舞台中央に大きな四角いテーブルがひとつあり、椅子は両端と真中にひとつずつ置かれている。中央に「ト書きを読む男」(山中崇)が座り、上手に「中年の男1」(松重豊)、下手に「中年の男2」(吉見一豊)が掛ける。この二人が何をしているかというト書きですぐに「あれ?」と思い、会話が始まるとわりあいすぐに、二人はホモセクシュアルな関係であることがわかる。
中央にト書きを読む俳優を、両サイドに登場人物を配置し、時折ト書き氏が俳優にあたかも指示を与えるような仕草をするあたりは、昨年の『朝に死す』で見た手法である。ト書きの表現のひとつとしておもしろい方法ではあり、初めてみる目には新鮮であるが前回も書いたとおり、何度も使える手ではないだろう。
今回の特徴は、劇が進むにつれて二人の俳優がいつのまにか入れ替わっていたり、終いにはト書き氏も巻き込んで誰がどの役なのか次第に混乱していく様を見せたところである。ある台詞を松重豊と吉見一豊が同時に激しく発しあう。内容が聞き取れないこともしばしばあり、またこの「同時発語」?の手法がどういう意図を持ち、戯曲に対してどんな切り込み方を見せるのか、劇空間がどのように変容していくのかを期待したのだが、その実感を得るところまでは到達しなかった印象である。
リーディング形式としての「見せ方」、読む俳優の「見せ方」としては確かにおもしろいところがあり、実力派の二人がぶつかりあい、役を取り合うさまやト書き氏が絡んでくるあたりも観客の目をひく。ただやはりもう一息、何かがほしい。戯曲に対して俳優と演出家が短い稽古期間で取り組むこのシリーズは、ある意味で創造のプロセスをそのまま見せることでもあり、その演出家の可能性やそれまで知らなかった戯曲のおもしろさを発見し、「もっと知りたい」という欲求の火を劇場に居合わせた人々の心に灯す役割も持つ。「切り口」「見せ方」を示すにとどまらず、そこから先がどう続くのか、戯曲そのものに対して演出家がどれほど悩み、考え格闘していたのかをもっと見たいと思う。
寺山修司の戯曲のト書きは不思議な響きを持つ。今回は劇後半の「長い一瞬の間」(一瞬の長い間だったかもしれない)である。矛盾した、ありえない表現である。しかし何かを感じる。しかも本式の上演ならト書きは読まれないから、客席はその存在を知ることがない。自分はそれを聞いてしまった、知ってしまったのだ。この密やかな快楽。これがあるからリーディング通いはやめられないのである。
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