因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

文学座公演『ガリレイの生涯』

2013-06-19 | 舞台

*ベルトルト・ブレヒト作 岩淵達治翻訳 高瀬久男演出 公式サイトはこちら あうるすぽっと 25日まで 
 昨年夏、演劇集団円公演で上演された同作品(千田是也翻訳 森新太郎演出)の記憶はいまだ新鮮で、ブレヒトへの苦手意識が薄れたばかりか、世の不条理に対する苦悩や混乱が演劇に新しい意味をもたらすさまをみた。とくに一昨年の東日本大震災と福島第一原発事故と放射能汚染を予見していたかのような本作のメッセージにただ慄然としたが、それでも生きてゆくしかないと奮い立たせる力が、あのときの舞台にはあった。

 今回の文学座公演では岩淵達治の翻訳を用いる。長きにわたって文学座附属演劇研究所の講師をつとめ、演出の高瀬久男とともに本公演の上演台本の構成に打ち込んでいた矢先、岩淵氏は旅立った。図らずも恩師の追悼公演となったわけである。

 昨年高瀬が演出した『ナシャ・クラサ』は高い評価を得て、読売演劇大賞の最優秀作品賞を受賞した。そのときに俳優がみせた演技が高瀬に衝撃を与えたという。「流れる時をぶった切るような異質な舞台で、彼らは叙情性を損なうことなく言葉に情緒をのせ、同化した」、そして「この劇団でブレヒトを」と決意したとのこと(6月6日朝日新聞より)。
 じつはこれがピンとこなかったのである。たしかに『ナシャ~』は刺激的な舞台であったが、「これまでの文学座でみたことのないような演技だ」との感覚をもたなかったためだ。演出家のこの衝撃を同じように感じられない点に、『ガリレイの生涯』を味わうのに致命的な妨げというほどでないまでも、何らかの違和感があったことは否めない。

 演劇評論家の大笹吉雄氏もこのことに触れ、「文学座は役に同化する演技を得意とする俳優が多い。『ナシャ』はその対極に位置する舞台作りで成果を上げたという認識で、一理ある」としながら、「文学座には同化型の演技とは異なるもう一つの流れが以前からあった」として、アトリエで長くつづいた別役実作品の上演を挙げ、「文学座の演技の質は、そもそもが一色ではない。そこを改めて掘り起こし、別の可能性を追求して、ある実りをもたらした」と評価する。

 この別役認識にしても、自分にすれば文学座で上演すれば文学座の別役実であり、「いつもの文学座とはちがう演技の型だ」という受けとめ方をしたことがない。演劇集団円や、晩年の中村伸郎さんによる劇世界とはべつもので、大滝秀治さんが演じた『らくだ』はやはり民藝の別役実なのであり、個々の俳優の演技の型というより、劇団ぜんたいがもつそれぞれの空気感や匂いが濃厚に支配するものなのだ。

 石田圭祐は一貫してガリレイを演じるが、ほかの俳優は複数役を兼ねる。公演パンフレットには沢田冬樹の役名のなかに「ブレヒト」と記載されている。、開演直前にマイクをもって通路を歩き、開幕の口上を述べたり、戯曲では各景に添えられた場の解説的なところを読みあげるのが作者のブレヒトとする趣向らしい。沢田は評議員や神学者の役もつぎつぎと演じることもあって、劇の案内役としては存在のしかたがあいまいで、まして作者のブレヒトと認識するにはしっくりこない。これも演出の意図であるとも考えられる。

 劇そのものに直接影響をおよぼすほどではないが、大道芸一座が狂言回しをつとめる劇中劇のかたちがはっきりみえず、いやここにも意図があるのかもしれないが、俳優さんの楽器演奏が聴いていていささか苦しいことに意識が奪われてしまったりする。劇中にソロの歌唱があり、これは男女ともにみごとなものであった。

 終幕、ガリレイがひそかに写しを保管していた「新科学対話」をたずさえて、弟子のアンドレア(亀田佳明)が国境を越えるとき、子どもたちのひとりジュゼッペ(植田真介)に語りかける。ジュゼッペは貧しくてろくな服装をしていないと仲間から軽く扱われているが、やや頭のゆっくりした子どもを思わせる造形がなされており、この点が疑問である。

 しかし階段の上からジュゼッペに語りかけるアンドレアのことばは力強く、彼に手を振る子どもたちのうしろすがたが光のなかでストップモーションになる終景はまことに美しく、鮮やかであった。ブレヒト劇の風景として、ずっと心に残るにちがいない。
 けれどあの鋭い閃光は、もしかすると広島と長崎に投下された原子爆弾を指すとも考えられる。音もなく静止したところに、恐ろしい何かを感じたのである。

 ガリレイ役の石田圭祐が圧倒的な力で舞台を牽引する。教会の監視下に置かれた晩年、再会した弟子のアンドレアに自己を断罪する長大な台詞は、何度も思い返して噛みしめたい。あの血を吐くような悔恨と、そこから希望を見いだそうとする告白は、まさにいま生きているわたしたちに投げかけられたことばである。
 長大で難解なこの作品が、311以降新しい意味をもってしまったことをしかと心に刻みたい「もってしまった」のである。作品は時代によって変容してゆく。『ガリレイの生涯』がたとえばあと10年、20年たって上演されたとき、自分はどのようなものを受けとめるのだろうか。
 過去からいま、そこからつづく「これから」を考えさせてくれる『ガリレイの生涯』、ブレヒトが遺した作品を、文学座が劇団の力を結集して客席に手渡してくれたのだ。
 抱えきれないほど重く、底知れぬほど深い贈りものだが、希望もいっしょに込められている。

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