*宮沢賢治原作 伊藤全記構成・演出・美術 東京バビロン演劇祭2017参加作品 シアターバビロン流れのほとりにて 21日まで(1,2,3)
生誕100年を過ぎてなお、多くのファンというより、信奉者から作品にもその人自身に対しても揺るぎない信頼と尊敬と愛情を注がれている宮沢賢治。彼の「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」という思想は、限りなく優しく温かで、自己を犠牲にしても他者の幸福を願う姿勢のあらわれであろう。『銀河鉄道の夜』をはじめ、賢治の作品はわたしたちを魅了してやまない。
しかしながらそのような作品群のなかに、時おり調子の異なるものも存在する。2007年の冬、「横濱リーディングコレクション」において、studio salt公演『飢餓陣営』(椎名泉水演出)を見たとき、「ずいぶん人を食ったような話だ」という印象を持った。
今回の『ビジテリアン大祭』(青空文庫で読める)は、ビジテリアンすなわちベジタリアン(菜食主義者)たちが集う大イベント(大祭)である。彼らは肉食主義者という異教徒たちを「改宗」させようと大激論を交わす。その甲斐あって、その場にいた人々がすべてビジテリアンに改宗するも、実はお祭りを盛り上げるための茶番であったことが明かされるという顛末だ。『飢餓陣営』以上に、まさに人を食った話なのだが、7度の伊藤全記による舞台はまことに不思議な空気で劇場を満たすものであった。
「シアターバビロン流れのほとり」の全体のイメージは黒であり、劇場入口の受付からすぐに場内に行く印象であったが、今回はどこをどのように変えたのかはわからないのだが、受付を済ませて床に描かれた矢印に従ってぐるぐると歩いてようよう場内にたどり着いた。演技スペースには椅子が数脚、その前に横長の台が置かれ、全体が白に作られている。モーツァルトの「アイネクライネナハトムジーク」が、あれはリコーダーだろうか、軽快にアレンジされた曲が流れ、何やら楽し気な雰囲気である。
登場するのは女優ばかり4人、丁々発止、ところどころに休憩風の場面も折り込みながら、激論の末に異教徒が次々にビジテリアンに改宗し、しかしすべてが異教徒のふりをしたビジテリアンたりによる狂言、大祭を盛り上げるための余興であったことが明かされる75分の議論劇である。3人が濃いめの舞台メイクをし、センスがいいとは言えないが目立つ服装をしているのに対し、主人公を演じる女優はほとんどノーメイクに近く、服装も地味で、すべてのからくりを知った失望と虚無感を一身に背負う。
伊藤全記は本作を「集団から個が生まれる瞬間が大胆に描かれた作品」「集団への幻想がこわれる物語」と捉える(当日リーフレット掲載)。ひとり取り残され、立ちすくむ主人公の目からは涙がこぼれ落ち、見守るこちらの心も寒々とする。集団への幻想を無残に壊され、孤立し、生きる方向性を失った人のすがたに戦慄を覚えるのは、いまこの国を覆わんとしている不穏な空気のなかで、みずからの足で立ち、自分の言葉で主張したとき、この主人公のようになる可能性があり得るという恐怖であろう。
打ちのめされた主人公の痛ましい立ち姿に暗澹たる気分に陥りながらも、終演後は意外にも爽快で、説明のし難い力が湧いてきた。これは重苦しい芯の部分をきっちりと押さえた上で、前述のような白を基調とした明るい舞台美術や軽快な音楽に加え、この『ビジテリアン大祭』を舞台化するという大胆かつ挑戦的な作り手の意志が感じられるためであろう。
決して読みやすい小説ではない。物語の世界に入り込んでしまうとほとんど戯画風になってしまい、そうすまいと意識すると字面を追うばかりとなる。台詞はたくさんあるのに、発する人の顔が見えず、声が聞こえてこない。まことに厄介な作品なのだ。
中盤と終幕間近に映像を用いられており、これについては作り手の意図がやや直截に表れた印象で、惜しいと思う。たしかに強烈なイメージを与え、観客の理解を促す効果はあるが、これがなくとも想像することは可能である。
7度と伊藤全記が、この作品をリーディングではなく、本式の上演に取り組んだことを非常に喜ばしく思う。短編とはいえ台詞の数は多く、しかも演じる人物に感情を入れにくい。4人の女優は大変な苦労があったのではないか。リーディングなら、却って大胆に演出を加えることができるし、何より俳優の負担も軽減される。楽をせず、敢えて労苦の多い方を選ぶ。ここに作り手の演劇に対する信念が潜んでいるのではないか。
「今度は何を見せられるのか」という若干引き気味だった姿勢がいつのまにか、「この次は何を見せてもらおうか」と前のめりに変容しており、苦笑しつつ喜んでいる。
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