因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

名取事務所 『ピローマン』

2013-03-23 | 舞台

*マーティン・マクドナー作 小川絵梨子翻訳・演出 公式サイトはこちら 下北沢「劇」小劇場 24日で終了
 名取事務所が現代英米演劇連続上演シリーズと銘打ち、TABOO(タブー)をテーマにした3つの作品の第1作である。
 数年前からどうしても気になる劇作家のひとりがマーティン・マクドナーだ。この名を聞くと素通りできなくなる(1,2,3)。一昨年秋から参加している「ドラマを読む会」において、アイルランドの劇作家J・M・シングの短編をつづけて取り上げている影響も少なくない。名前のとおり小さな劇場で上演が3時間を越えるという事前情報に思わず引いたが、初日あけてすぐ観劇した知人はよい感触を得たとのこと。

 対面式の客席の中央に舞台が設置されているが、ややゆがんだかたちになっていることもあって、座席すぐそばに寝台があったり、舞台から沈み込むほどの位置にまで座席があったりする。昨年観劇した同じ演出家による『橋からの眺め』を思い起こした。舞台や客席のゆがみや捻じれは、そのまま登場する人々の置かれた状況や心の様相とみた。

 どこかにある全体主義独裁国家で、作家のカトゥリアン(寺十吾)が刑事の尋問を受けている。彼の書く童話には残酷に殺される子どもたちの様子が描かれている。折しも凄惨な児童連続殺人事件が起こり、殺された子どもたちの様子がその童話に酷似していたために、彼はほぼ確定的な容疑者として逮捕されたのだ。知的障害のある兄ミハイルも連行されたらしい。刑事はややものわかりのよさそうなトゥボルスキ(斉藤直樹)と、すぐにでも拷問しようと息まくアリエル(田中茂弘)のふたりだ。国家権力を象徴するかのような刑事たちのまえで、小動物のようにおびえるカトゥリアン。両者の攻防がはじまる。

 カトゥリアンと刑事たち、またカトゥリアンと兄ミハイルとのやりとりが主軸の作品であるが、そのあいだに兄弟たちの幼少時の思い出や、カトゥリアンの童話世界の場面が寓話のように挿入される。子どもをむごたらしく扱う陰惨極まりないものなのであるにも関わらず、毒素のような詩情があって目を奪われるのだ。

 国民にとって、国家や警察は権力そのものであるように、子どもにとって家庭における両親はじめ学校の教師や教会の聖職者は、自分たちに対して絶大な権力を行使する者である。みずから働いて報酬を得られない子どもたちは彼らの庇護のもとに生きるしかなく、敵に回せば命がなくなるに等しい。カトゥリアンとミハイルの両親は、どんな意図があったのかは不明だがわが子たちを実験動物のごとく扱った。カトゥリアンを溺愛し、もの書きとしての才能を認めてやり、兄ミハイルはその存在すら弟に隠して虐待のかぎりを尽くし、知的障害を負わせた。極端な扱いをすることによって、人がどのような成長をするかを実験したのである。

 カトゥリアンの書く童話は不幸な子どもたちがもっと不幸になる前に自殺させてやるというものだ。これは両親から想像を絶する虐待を受けた兄の存在によって自分が溺愛され、もの書きになったことを正当化する手段である。
 「虐待の連鎖」とは、子どもの虐待を語るとき繰り返される文言であり警告である。虐待されて育った子どもは、虐待の経験しかないために自分が子どもを成しても愛し方がわからず、同じように虐待してしまうというものだ。これはある面で事実ではあろうがすべてではなかろう。自分が傷つけられたからこそ、わが子には決して同じ辛さを味わわせないと懸命に愛情を注ぐこともあるはずだ。

 『ピローマン』は、心理学や精神医学による人の心の解き明かしへの痛烈なアイロニーと読むこともできる。少なくとも筆者は、「虐待の連鎖を食い止めるために、自分の心を見つめ直そう」「あなたを殴った親御さんにも辛い過去があったのです」「生きていればきっと幸せが訪れる」のあれこれよりも、子どもたちがいまより不幸にならないために自殺させてあげるという、ある意味でむちゃくちゃなカトゥリアンの哲学のほうが温かで、希望がないことがかえって救いに通じるとさえ思うのである。

 むろん現実の児童虐待はあってはならないことであり、社会ぜんたいで取り組まねばならないことだ。しかしその一方でマクドナーの物語から発せられる麻薬的な不幸の味、絶望の心地よさに、ほとんど快楽を感じるのである。

 カトゥリアンを演じた寺十吾が圧巻であった。1月のJACROW公演『パブリック・リレーションズ』でみせたあのとんでもないプロデューサーの記憶がいまだ濃厚なのに、今回もまた大変な難役に挑んだ。この人は俳優としてどこへゆこうとしているのか。与えられた役が自分に合っているかどうかなどにはおかまいなく、ねじ伏せるようにものにしてしまうようなところがあって、プロデューサーや劇作家は、俳優・寺十吾に対して慎重な姿勢が必要であろう。
 筆者観劇当日はたまたま不調だったのか、後半にすすむにつれ台詞をずいぶん噛んでしまっており、残念なところもあった。しかしながらこの作品のこの役において、上演時間中ずっと緊張感を保つのは至難のわざであろうし、仮にカトゥリアンが滔滔と台詞を語ったとしたら、本作の求めるところとは違う方向に進んだとも考えられる。
 カトゥリアンは全体主義を象徴するふたりの刑事に翻弄され、心もからだも著しく傷つけられながら無残な最期を遂げる。しかし彼の書いたものはひとりの刑事に何らかの種を残した。舌を巻くような名演技、立て板に水の名調子でないほうが、かえってしっくりくる場合もあるのである。
 ふたりの刑事も健闘した。台詞や前後関係はすでにあいまいだが、トゥボルスキが「おれが暴力をふるう亭主になったか?なったよ。だがそれは自分が選択したことだ」と開き直ったり、アリエルがカトゥリアンにみせる情など、笑いや微かな救いをみせることによって、謎の多い本作にいっそう複雑な魅力をもたらした。
 カトゥリアンが両親が自分を溺愛することによって「(もの書きとして)クリエイティブな環境だったので」という表現、両親役など複数を兼ねる男女の俳優の服装や、華美なアクセサリーと縁の太い眼鏡のバランスなど、多少違和感をおぼえる箇所があった。観劇ぜんたいに対する大きな妨げにはならなかったが、これは翻訳・演出に何らかの意図があったのだろうか。

 誰にでもすすめられる芝居ではなく、何度もみるのはさすがに辛い。しかしまさに麻薬的な魅力があって、とうぶんのあいだ忘れられそうにない。アフターのお茶やお酒は観劇の愉しみのひとつだが、落ち着くのも盛り上がるのもむずかしい芝居で、しかしそういうもののほうが「芝居をみた」という手ごたえをずっしりともたらすのである。

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