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平清盛と源頼朝・鎌倉幕府の成立~その1~

2006-03-17 20:34:40 | 日本の歴史について

というわけで、平清盛という人の出番になります。
この人に関する詳細はこちらでも。
まあ簡単に言うと武士と言う身分で初めて天下をとった人です。
清盛はどうやってその権力を高め、維持しようとしたかと言いますと、まずは一族一門の官位を引き上げみんな高位にしました。
そして自分の娘を天皇の妃にしてその子供を天皇にしました。(これが安徳天皇)
つまり、摂関家藤原氏の真似をしたんですね。
しかしこの清盛に多くの武士達は失望しました。
自分達の為の政治をやってくれなかったからですね。

また旧勢力といえる院や上級貴族たちも、この成り上がりの平家に対していい感情を持っていません。
と言うわけで「平氏にあらずんば人にあらず」言うまで栄華を誇った平家には、滅亡が目に見えていたわけです。
実際に清盛の死後あっさりと平家は滅んでしまいます。

とは言っても平家自体は西国を中心に大きな勢力を持っていました。
何故そんな簡単に滅んだのでしょうか?

ここで源頼朝の登場です。
まあ詳細はここででも。

まだ平家の全盛時です。
摂津源氏の源頼政という人が以仁王という後白河法皇の皇子を奉じて平家打倒の兵を上げました。
ところがすぐに鎮圧されました。(ちなみに頼政が討たれた場所が宇治です)
このときに各地の源氏に「平家撃つべし」と言う内容の令旨が回りました。(令旨とは親王の命令書みたいなものかな)
それにより各地の源氏が蜂起するのを恐れた平家が源氏追討令を出します。
まあこれが結果的にやぶ蛇になり各地の源氏が蜂起することになります。
「どうせ討たれるなら一か八か兵をあげるぜ」ってことでしょうかね。
そして源頼朝は伊豆で蜂起。
源氏の嫡流として毛並がよく、政治能力に優れた頼朝のもとに各地の武士が集まっていきます。
まあ詳細を書くと長くなるので省きますが、最初は石橋山で敗れましたが九死に一生なところで逃亡に成功し、その後体制を立て直した後は連戦連勝でした。
しかしすぐに都に上ることをせずに鎌倉を拠点に力を蓄えました。
またこの時に頼朝陣営に日本史上最高の能力を持った武将が加わりました。
その名は言うまでも無く源義経です。
平家の滅亡は頼朝の命を受けた義経の手によっておこなわれることになります。

長いんでここで中断。
次回に続く

平安時代から武士の起こり

2006-03-17 16:31:24 | 日本の歴史について

今日は思いっきり趣味のお話し
わたしは実は結構な歴史マニアなのですよ。
という訳でそういった話しをたまには少々
かなり独断と偏見が混じってますので突込みどころは満載でしょうがねw
戦国時代のお話しをしようと思ったんですが、それにはいろいろ前置きが必要。

歴史と言うものは断片的な1シーンを掘り出してみるのも面白いんですが、大局的に全体の流れを見るとよりいっそう理解が深まります。

歴史というものを大局的に見ると、
天皇>貴族>武士
基本的に権力ってのこう言った流れで動いていますね。
元々天皇を補佐する立場であった貴族がいつのまにか権力を握っている。
まあどこの国の歴史でもよくある話しなのですが、日本が他の国と決定的に違うのは、どれだけ権力を握った人間がいても決して天皇にはならなかった(なれなかった)と言うことです。
藤原道長も源頼朝も北条泰時も天皇になろうなんて考えすらおきなかったのですよね。

話しが横道に大分それましたねえ。
真面目に語るならば聖徳太子の時代から順を追って話したいとこですが(まあそれでもいいんだけど)
その辺は略しまして、主に武士について。
今回は、武士とはそもそもどの様にしておこったかと言うことについて話しましょうか。

時代は平安時代あたりから話しましょうか。
中央は藤原氏を中心にした貴族たちがいわゆる摂関政治というのを行ってました。
でもこの藤原さん達は端から見るといい加減な政治(本人たちは真剣だったのだろうど)をやってました。
こで荘園という物がでてきます。
この当時の日本ってのは律令制度でした。(厳密には明治に入るまで律令制度だったんだけどね)
律令制度ってのは公地公民でして土地は天皇のものでした。
ところが、やっぱり土地ってのを自分で持ちたいなあという意識があったため、三世一身法そして墾田永年私財法というのができました。
これによって開墾した土地は自分で所有できるようになりました。
とは言ってももちろん税金を払わなければいけません。
ところが上級貴族のには自分の財を増やすために自分の土地(まあこれを荘園と呼ぶわけで)を免税になるようにしました。
ここで、主に地方に拠点を置いている下級貴族の人は自分の財を増やすために何をしか?
自分の土地の名義を上級貴族の名前にしてその上級貴族に手数料を払うことにしました。
こういった土地の領主を荘官といい、こいった荘園を寄進地系荘園と呼びます。

う~ん歴史の教科書っぽいことを書いてますね。

こういった荘園は爆発的に増えていきます。
そうなると国に収められる税金が減り、上級貴族の懐に入ってくる手数料がどんどん増えていきます。
しかし実際に政治を行っているのがその上級貴族なため、なかなか改革ができません。
しかしながら国に収められる税金は減ってくるわけですから、まともな政治ができな
くなってきます。
こういった状況なので、中央政府に対して「ふざけるな~」って思う人達が出てくるわけですね。
例えば藤原純友の乱・平将門の乱などなど。
まあ実際は自分達の土地所有権の確保というのがでかい要因なんですよね。
平将門は自らを新皇と名乗りに関東8州の独立をうたい各地の国司を襲ったりしましたが、結局は失敗に終りました。
またこの頃に地方の土地を開拓してた人達がが自衛のために武装したのが武士の起こりみたいです。
と思ったらこちらとか調べてみると諸説あるみたいですね。

たしかに清和源氏や桓武平氏といった在京の武士たちは、地方土着の武士とはいろいろ違う感じがありますね。
ちなみにこの清和源氏や桓武平氏(有名なのは源義家・平清盛などなど)は主に上級貴族などの護衛をしてました。
まあ貴族達のガードマンといった役割ですかね。
保元・平治の乱では主力として戦ったりしてました。

もともと日本では平安時代の始めのころに桓武天皇が軍事を廃止してしまったため律令制度のなかのちゃんとした役職としての武官ってのがありません。
とは言っても治安維持のため武力は必要なため、武士という階級がいつの間にやら生まれてきたわけです。

あといつのまにか日本では殺生を生業にしてる人達を蔑視する習慣?があります。
そのため上級貴族達は武士という存在をあんまり快く思っていなかったのでしょうねえ。
侍って言葉はさぶらう(従うと言った意味)の言葉が語源。

平安時代末期では京在住の武士というのは上級貴族のガードマンをしてました。
また地方在住の武士は土地を開拓しながら近隣の武士とその土地の争いをしてました。

そしてその武士の最大の望みは自分の土地所有の権利をしっかりと見とめてもらうことでした。
ところが京の貴族達は腐敗しきっていて頼りにはなりません。
それどころか彼らは自分らを犬のように思っています。
という訳で全国の武士達は解放者を待ち望んでいたわけです。
ここで平清盛そして源頼朝の登場となるわけです。

書き始めると終らないねえw
次回に続く