語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【佐藤優】15世紀の教会はまるで暴力団 ~一神教と資本主義(4)~

2015年11月12日 | ●佐藤優
 (承前)

(4)15世紀の教会はまるで暴力団
 15世紀に全世界のカトリック教徒の精神的指導者であり、神の代理人であるローマ教皇が3人並び立つ、というあり得ない事態が生じた時期があった。
 そのうちその一人が、ナポリ貧窮貴族の出身で元海賊と伝えられるヨハネス23世。元海賊がローマ教皇になって大丈夫か、と感じるのが普通だ。しかも3人は互いに罵り合い、傭兵を雇って戦争し、免罪符を売りまくって大もうけした。自分たちは呑んで酔っ払っているのに、信者にはウエハースしか与えない。
 当時の教会は粉飾会計まみれの会社みたいな感じだ。株主たちは当然心配になる。
 15世紀はじめのチェコの宗教改革者ヤン・フスは、聖書の一節を引用して当時の教会の腐敗を批判した。
 「毒麦とよい麦というのがこの世にはある。しかし毒麦とよい麦は実がなるまでわからない。しかも根っこが絡みついているから、毒麦を抜いてしまうとよい麦まで抜けてしまう。そこで実がなるまで待ってから仕分けして毒麦のほうは火にくべればよい。目に見える教会にいるから救われるわけではない。なかには毒麦がたくさん混じっている」
 毒麦と教会は一緒だ、とフスは言ったのだ。
 当時のカトリック教会で、ミサはラテン語で行われていた。しかし、ラテン語を知らない一般信徒は何が語られているか、わからない。フスは、そんな教会の慣習はおかしいと訴えた。
 神の言葉は、民衆がわかるようにするべきだと、「ベツレヘム礼拝堂」でチェコ語を使って説教をした。しかし、フスに脅威を覚えた教会により、捕らえられて異端の烙印を押された。1415年に火あぶりにされた。ちょうど600年前の出来事だ。
 粉飾まみれの企業どころではない。もう暴力団だ。
 ここから宗教改革が始まった。宗教改革とは、一神教の原則に立ち戻り、信仰共同体の現状を改善すること、ドイツの宗教改革者ルターは、聖書を根拠に、カトリック教会を徹底的に否定した。聖書に書かれていないことはできないと主張した。
 宗教改革は、イエスが唱えた素朴な原始宗教に戻ろうとする復古維新運動だった。
 チェコでは、フスが指導した15世紀のボヘミア宗教改革を第一次宗教改革、16世紀にルターやカルヴァンが起こしたドイツやスイスの宗教改革を第二次宗教改革と呼んでいる。宗教改革を一連の流れとして捉えているのだ。
 フスがいなければルターは出てこなかった。フスについて学んでいたルターは、ドイツのライプチヒで公開討論を行い、教会を批判した。その後、教会から破門されたルターは、支持者の領主にかくまわれた。
 宗教改革以前の教会の腐敗はあまりにもひどい。宗教改革が各地にたちまち拡がったのは当然だ。
 しかし、信徒は忍耐して教会を離れなかった。そのわけは、教会の腐敗よりもナザレのイエスが持つ存在感、説得力、美しさが上回ったのではないか。彼に従った弟子たちをみてみると、ごく普通の人びとばかりだが、少なくともイエス本人だけは違った。そう考えてキリスト教徒は、教会の腐敗に耐えたのではないか。
 教会内で、イエスのリアリティだけは守られていたというわけだ。
 しかし、ここでも同じ問題に行き当たる。ビジネスをしたり、戦争をしたり、あこぎなことをやったり、正しいことをしたり・・・・。イスラムならシャリーアがあるから、善悪の基準が明確だ。しかし教会はその役割を果たしてくれなかった。
 キリスト教徒は聖書を手がかりにするしかなかった。
 聖書を手に取り、次に福音書のページを捲り、善悪の基準、自分の行いを判断した。
 福音書にはこう書いてある。「主を愛せ」。そして「隣人を愛せ」。
 これはイエスの教えだが、実は旧約聖書からの引用だ。汝の隣人を汝自身を愛するように愛しなさい、なのだから、人間は自分を愛していいのだ。けれども、自分と同じように隣人も愛しなさい。

□佐藤優『あぶない一神教』(小学館新書、2015)/共著:橋爪大三郎
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 【参考】
●第3章 キリスト教の限界
【佐藤優】イエス・キリストは「神の子」か ~ キリスト教の限界(1)~
【佐藤優】ユニテリアンとは何か ~ キリスト教の限界(2)~
【佐藤優】ハーバード大学にユニテリアンが多い理由 ~ キリスト教の限界(3)~
【佐藤優】サクラメントとは何か ~ キリスト教の限界(4)~
【佐藤優】何がキリスト教信仰を守るのか ~ キリスト教の限界(5)~
【佐藤優】第一次世界大戦という衝撃 ~ キリスト教の限界(6)~
【佐藤優】なぜバルトはナチズムに勝ったのか ~ キリスト教の限界(7)~
【佐藤優】皇国史観はバルト神学がモデル? ~ キリスト教の限界(8)~
【佐藤優】米国が選ぶのは実証主義か霊感説か ~ キリスト教の限界(9)~
【佐藤優】無関心の共存は可能か ~ キリスト教の限界(10)~

●第4章 一神教と資本主義
【佐藤優】資本主義は偶然生まれたのか ~一神教と資本主義(1)~
【佐藤優】なぜ人間の論理は発展したのか ~一神教と資本主義(2)~
【佐藤優】最後の審判を待つ人の心境はビジネスに近い ~一神教と資本主義(3)~
【佐藤優】15世紀の教会はまるで暴力団 ~一神教と資本主義(4)~
【佐藤優】隣人が攻撃されたら暴力は許されるのか ~一神教と資本主義(5)~
【佐藤優】自然は神がつくった秩序か ~一神教と資本主義(6)~
【佐藤優】働くことは罰なのか ~一神教と資本主義(7)~
【佐藤優】市場経済が成り立つ条件 ~一神教と資本主義(8)~
【佐藤優】神の「視えざる手」とは何か ~一神教と資本主義(9)~
【佐藤優】なぜイスラムは、経済がだめか ~一神教と資本主義(10)~

  


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