語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【加藤周一】頼山陽 ~付:頼山陽史跡資料館(広島市)~

2018年05月02日 | 批評・思想
 <しかし漢詩の「日本化」に応じて、古典シナ語の散文そのものにも「日本化」がおこった。その代表的な作例は、詩人頼山陽(1780~1832)の『日本外史』(1827完成、1836刊)である。頼山陽、名は襄(のぼる)、安芸藩の儒者で、高名な詩人、頼春水(1746~1816)の長子である。春水の弟二人(春風と杏坪)もまた詩人として知られていた。山陽は少年の時身体虚弱で、大いに放蕩の癖があったらしい。20歳で脱藩し、廃嫡、?居(1800)。三年後幽閉を解かれる(1803)までに、『日本外史』の初稿を作ったといわれる。その後『外史』に手を加えて、定稿を松平定信に献じたのは、47歳の時である(1827)。その死に到るまで、生涯禄を食まなかった。著書に『外史』の他、『日本楽府』(1828完成、1830刊)、『日本政記』(1832完成、1838刊)、『山陽詩鈔』(1833刊)などがある。『外史』は人物を中心とした武家政権の歴史であり、源氏・新田氏・足利氏・徳川氏を「本記」として、平氏その他の諸氏を「前記」または「後記」として補足する。各氏の記述の後には「論賛」をおき、その盛衰の理由・道義的批判・そこに見るべき教訓などを論じる。『日本政記』は歴代の天皇の治績を記述して、神武天皇から後醍醐天皇の慶長2年(1597)に到る。編年体の記述は『外史』のそれよりも簡潔で、「論賛」に相当する部分に詳しい。『日本楽府』は、日本歴史上の人物と挿話を、比較的自由な詩型(楽府)を用い、66篇の詩に詠じたものである。『外史』の構成は『史記』に準じ、『日本楽府』の形式は明の李東陽『擬古楽府』に借りると著者みずからいう。しかし山陽の独創性は、何よりも、日本歴史に対する彼の関心そのものにあるだろう。生涯仕えず、一野人としてその長くない人生の全力を、日本史を詠じ、かつ記述することに傾け尽くした。そして詠じることと、記述することとは、不幸にして、また幸いにして、彼の場合には不可分であった。
 『外史』および『政記』に用いられた資料には、新しい発見がなく、また事実の誤を多く含むということ、また解釈(彼のいわゆる「論賛」の部分)に借りもの(殊に『読史余論』『大日本史』)が多いということについては、早くから批判があり、今ではそれが歴史家の一致した見解となっている。これは山陽の歴史家としての不幸である。まず事実について--たとえば有名な千窟(ちはや)城攻囲の記述(『日本外史』巻之五、新田氏前記、楠氏)は、『太平記』による。しかるに『太平記』は軍記物語であって、そのまま歴史的事実の資料ではない。そのことを山陽が感じていなかったのではない、ということは、攻城軍の兵力について『太平記』の数字を割引きしていることからも察せられる(『太平記』では100万、『外史』では80万)。しかし各戦闘での死傷者の数についてはそのまま『太平記』に従う。たちどころに「四千余人」死んだなどというのは、詩的誇張であって、歴史的事実ではあるまい。また解釈について--しばしば白石の解釈を借りながら、白石説を反駁するときに、その名を明示していないということは、すでに同時代の学者からも手きびしく批判されていた点である。しかしそれは道徳的批判である。議論の内容の自己矛盾は、歴史家として、もっと致命的な問題であろう。「論賛」は『政記』に詳しい。そこで山陽が白石を駁するのは、たとえば後醍醐天皇のいわゆる「中興」の政治が、失敗であったかどうかということに関してである(『日本政記』巻之十二、後醍醐天皇)。白石の『読史余論』は、権力掌握後の後醍醐天皇の新政を失敗であるとして、その内容を分析し、失政の要点の一つは、武士に対する論功行賞の不当である、と説く。山陽は後醍醐帝には失政がなかったという。しかし失政がなくて「中興」の政治がたちまち崩壊したことを説明するのは、困難なはずであろう。はたして彼の「中興」政治批評は、一方で「当時の政は、概ね皆その宜しきを得、時勢に合ひ、人情に愜(かな)ふ」といい、他方では「武人の邑、往々にして内官の私給となり、憤怨して乱を思ふは、固よりそれ宜(うべ)なり」といって、全く首尾一貫せず、何のことだかわからない。白石の解釈をそのまま採ったところはよろしいが、白石の解釈に反対したところは支離滅裂で、到底異説というにも値しない、ということにならざるをえない。
 山陽の歴史観は、英雄主義と尊王主義である。英雄とは「時の勢」に乗じる指導者で、英雄の行動の是非は、天皇に対する忠誠の程度によって測られる。ただし彼の「尊王」は、歴史上の天皇の批判を排除しない。たとえば後白河帝が平清盛を登用した誤も指摘する(『外史』巻之一、源氏前記、平氏)。また「尊王」は幕藩体制の批判を意味せず、殊に倒幕を意味しない。それどころか徳川氏は今日「太平極盛の治」を実現しているという(「外史例言」)。この単純な歴史観が、たとえば南北朝の複雑な政治的変化を説明するために全く不適当であることは、あきらかであり、また明治維新の変革のために、その理論的根拠を提供しないだろうことも、あきらかである。しかし『日本外史』は広く読まれた。松平定信はその出版をたすけ、藩校でこれを用いるものが多く、維新前にその部数は100万部に近かったのではないか、という説さえもある。何故そういうことが生じたのか。なぜ『日本外史』は徳川時代のいかなる史書とくらべても圧倒的に広い読者を獲得したのだろうか。おそらく幸いにして山陽の歴史は彼の詩に他ならなかったからである。
 政治を説明することの無能力は、同時に、人物を躍動させる能力でもあった。『外史』の叙述はたとえば『太平記』のそれよりもはるかに簡潔で、要点に集中している。その文章には、古典シナ語の散文としてではなく、読み下しの日本語散文として、緩急の妙があり、適度の誇張と単純化があり、漢語の響きがあたえる一種の感覚的な効果がある。あらかじめ読み下しを前提として「漢文」を書くのは、必ずしも山陽にはじまらない。しかしその効果を、極度に利用して、日本語散文の一つの文体の原型を作り出したのは、山陽の独創性であり、その人気の秘密でもあったにちがいない。かくして山陽は漢文を「日本化」した。読み下せば調子がよく、青少年を酔わせるにちがいない文章を作った。その語の意味は必ずしも正確でなく、論旨は常に明晰であるとはかぎらない。しかし言葉は壮大で、華麗で、ときにはいくらか安手であるにしても、たしかに名調子である。そういう文章を駆使して、彼は「ナショナリズム」に訴えた。『日本外史』が、19世紀中葉の対外的危機感のなかで、成功しなかったはずはなかろう。現に明治政府が戦った二つの対外戦争の間に、またはるかに降って1930年代の軍国主義の時代に、「ナショナリズム」を煽った著作家は、誰もそのことを知っていたし、『外史』の遺産を利用して、もっと煽情的な、もっとあいまいな、もっと不消化な漢語を多用する文章を書いたのである。>

□加藤周一『日本文学史序説(下)』(ちくま学芸文庫、1999)pp.192-196を引用

  頼山陽史跡資料館(広島市中区袋町5-15)
 

 

 

 
 
 

 

 

 

 

  
 



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