保津川下りの船頭さん

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角倉了以翁と田辺朔郎氏 ~もうひとつの京都物語~

2016-04-03 12:37:14 | 船頭の目・・・雑感・雑記
1000年の古都として日本人に愛される都市・京都。しかし、その長い歴史の間には、幾度も衰退の危機に直面することがありました。
近世江戸幕府が開かれた時や明治維新後の東京遷都時もそうでした。この危機を救ったのは河川整備でした。
そしてそこには2人の志高き人物の活躍がありました。その2人とは角倉了以と田辺朔郎です。

では、この二人にどのような共通点があるのか?田辺朔郎・・・東京工部大学校(後の東京帝国大学工学部)を卒業したばかりの 24 才の技師。

明治政府による東京遷都で、朝廷という精神的支柱すら失い、京都は政治的・経済的に苦境のどん底にありました。
古都の復興と発展のためには抜本的な基盤整備の断行が緊急の課題でありました。その主事業計画こそが、京都と大津(滋賀)の境で
難所といわれた逢坂山と日ノ岡間を 隧道で貫通させて近江との舟運を開くという琵琶湖疏水計画でした。

当時の京都府知事・北垣国道は、朔郎の卒論「びわ湖疏水工事計画」に惚れ込み、工事全体の責任技師として抜擢したのです。
しかし、土木工事費予算として125 万円を要する疏水工事。当時の京都府の年間予算額でも 50~60 万円程度で、
国家全体の 土木工事費予算が約 100 万円と いう時代です。まさに桁外れの大プロジェクトです。
指導的立場にあった外国人技師たちも「今の日本の技術力では無理だ」といわれ、
かの福沢諭吉も『京都の風光明媚な景観を壊すだけで、害有って益無し。』と酷評しました。

しかし、知事は「京都復興」という不退転の決意で、この若き技師の朔郎に賭けたのです。

近世・江戸初期、政治の中心が江戸に、経済の中心が大坂へ移り衰退の一途を辿る都京都を復興させるため、
一族や地域住民の反対を押し切り、保津川と高瀬川開削に挑み、救った角倉了以。
その子素庵とともに夢見ていた計画こそ、まさにこの琵琶湖疎水計画だったのです。

世紀の大事業といわれた琵琶湖疎水計画は明治 23 年 4 月 9 日の開通式に天皇・皇后両陛下の臨席を賜り完成します。

そして疎水は舟運だけでなく、その後近代化に欠かすことができない主エネルギーとなる「電気」を水力で発電する事業を
可能にするともに市民の生活用水の確保にも役割を果たし、近代の生活基盤整備の確立へとつながっていきます。

まさに了以が保津川から丹波の木材資源を舟で運ぶことで、都の人々の火力エネルギーを供給し、
都の物価安定に貢献したことともオーバーラップする事業です。
そして、朔朗が完成させた琵琶湖疎水は100 年以上経った今も京都の人々の生活基盤を支える施設として重要な役割を果たしています。

朔郎は後年京都で没しますが、その時の戒名に「水力院釈了以大居士」と付けてほしいと希望したのです。

生涯抱いた角倉了以への強い憧れを感じずにはいられません。

角倉了以の志を知り、その思いを受け継いだ田辺朔郎氏。


思想という‘志’は時代を超えて人を潤し、地域を潤し、受けつがれるものだということがわかります。

人はその生涯で、何を残すか?

伝統を受け継ぐ私たちもこのことをしっかり心に修めて、歩んでいかねばなりません。

先人たちの情熱と偉業により守り続けられた古都・京都。

その奥深さこそが世界中から訪れる人々の心をとらえて離さない魅力の一つだと感じるのです。

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