保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

保津川下りがトリップアドバイザーでエクセレンス認証!

2015-06-21 16:53:01 | 保津川下り案内
この度、保津川下りが世界最大の旅行サイト・トリップアドバイザーで
旅行者が選ぶCertificate of Excellence(エクセレンス認証)2015を受賞いたしました!

同サイトにて安定した高評価の口コミを得ている施設だけが獲得できる賞で、
保津川下りを「業界で最高の施設」に利用者の皆さんが選んでいただいたことを
光栄に感じております。これからもこの賞に恥じない「おもてなし」と
楽しみ満載の舟下りをご提供して参りたいと存じます。

今後とも保津川下りへのご愛顧のほど、よろしくお願いいたします。

Hozugawakudari has been awarded a 2015 Certificate of Excellence by Trip Advisor,
the world's largest travel site!
Only establishments that consistently earn high evaluations in the
user comments on the Trip Advisor site are eligible to win the award,
and Hozugawakudari is honored to be chosen by these users as "The Industry's Best Facility."
In the future, in order to live up to this prize we would like to continue to
offer boat trips loaded with hospitality and fun.
We hope that you will honor Hozugawakudari with your continued patronage.

日文研から角倉研究の本を出版します!

2015-06-15 18:04:28 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
いよいよ日文研で進めていた「角倉一族の研究」をまとめた本が出版されます!
森洋久国際日本文化研究センター准教授編集のもと思文閣出版から
6月内に刊行される予定です。
近世における角倉一族の業績を俯瞰的に検討し、多彩な分野の研究者の論与で考察する、
まさに角倉研究の集大成本です。
不詳私も執筆者として名を連ねております。
学術書なので少しお値段はしますが、ご興味のある方はぜひ、お買い求め下されば嬉しい思います。

この本をきっかけに日本産業史に角倉一族の業績が正当に評価され、多くの日本人に
知っていただける契機になればこんなに嬉しいことはありません。

日本文化研究の最高機関である国際日本文化研究センターの取り組みに心から感謝いたします。

「もうひとつの京都」が観光映像大賞を受賞!

2015-06-14 15:32:56 | 保津川下り案内
東京で開催されている国際短編映画祭内で「もうひとつの京都」のショートムービーが
「観光映像大賞(観光庁長官賞)」を受賞しました!

「もうひとつの京都」とは、古都京都とはひ味違う府内の各エリアにスポットを当て、
観光誘客と地域活性化のためにそれぞの魅力を“音楽”と映像で発信するキャンペーン。
里山や海といった京都の美しさをPRする12分間のムービー作品を、映画祭の
「ショートショート フィルムフェスティバル&アジア2015」に応募したところ、
全国562作品から最終選考9作品に残り、最高位に選ばれたのです。

この企画に関わる人全てに励みになる素晴らしい賞ですね!
「森の京都」の構想策定に関わる身としても俄然、やる気が出てきました。

受賞したムービーは世界的ヴァイオリニスト・葉加瀬太郎さんや女優・本上まなみさんらの
協力により制作した3篇のショートムービーで、丹後地域を「海の京都」
亀岡・南、中丹地域を「森の京都」 山城南部地域を「お茶の京都」とエリアを分け
それぞれの地域の自然、歴史、文化などの特徴を活かし、地域振興を仕掛けていく予定です。

従来の行政指導型の施策ではなく、その地域に住む者が自らの地域の特性や資源を
自らの知恵と力で掘り起こし、地域活性へつなげるという事業です。
「森の京都」亀岡は、日本文化の源ともいわれる「千年の都」を支えた山と川を有する地
山と都を川でつないだ地というという視点から,他の地域ではけして真似ができない
「とんがった」構想をまとめていきたいです。今から楽しみです。

https://www.youtube.com/watch?v=dNAqtoMhBds

琳派400年 俵屋宗達と角倉素庵の友情物語 ~その参~

2015-06-11 09:53:03 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
俵屋宗達の作品の中で最も有名な絵が「風神雷神図屏」です。
建仁寺所蔵ですが、現在は京都国立博物館に寄託されたいます。

この『風神雷神図屏』は、宗達が1632年に素庵が死去した後、鎮魂のために
描いたのではないかという仮説を立てているのは関西大学の林進先生です。

実はこれまでの俵屋宗達と角倉素庵の友情物語は林先生の説に基づいて書いています。

先生の説によると、寛永四年(1627)にライ病(ハンセン病)を患った素庵は、当時のらい病者への偏見と
いう掟に従い、世間との関係を絶って嵯峨千光寺の跡地にひっそりと隠棲します。

ライ病は、皮膚が白くなる「白らい」(ビャクライ)という症状があり、素庵もその症状が発病し
身体の皮膚が白く変色していました。宗達は素庵への鎮魂の為にこの絵を描いた事を、
自らの心情を作品で表現しようとしたのでしょう。
本来、伝統的には赤く表現されていた「雷神」が、なぜ宗達の絵では「白い」のか?
風神雷神絵を考察するときに見過ごすことができない視点なのに、これまで説得力のある
説明はなされいません。宗達ほどの作家が何の意図もなく赤から白に変えることは考え難いです。
これについては宗達研究の第一人者の山根有三氏でさえも、白い絵具を使うのが「好きだったから」
と全く踏み込んではいないといいます。

林先生は、雷神の体を白色に変えたことこそ、素庵の姿を重ねたものであり、鎮魂の表現
だといわれています。
続けて、もう一方の風神には宗達自身を重ねることで、素庵の元へ寄り添おうとする
自身の心情を表現しているというのです。

理不尽な境遇で苦しみ死んだ菅原道真の縁起を描いた絵巻に、怨霊と化した道真(雷神)が
御所に雷を落とす場面を描いた雷神絵。その絵を宗達は本屛風の二神の姿に転用したのです。
実業家のみならず文化人とても輝かしい業績を残しながら、不運な晩年を過ごさざるおえなかった素庵の生涯。
その無念の心境を道真に重ね、雷神として描いた宗達、そして自分も風神に寄り添う。そして、
今にも雷を落とし災いを起こそうとする雷神(素庵)に、右側から駆け寄り、
「おーい、素庵。俺も来たよ。昔のように楽しくやろうよ。今までのことは良いじゃないか。」と
なだめ、話しかける宗達の心情。

雷神の悲しげな表情に、世間から見捨てられた素庵の不運な人生がにじみ出ているようです。
その人物像が謎に包まれている宗達ですが、この作品が林先生のいう心情から
生み出されたものだとしたら、友情と義理厚い新たな宗達像が浮かび上がってくるのではないでしょうか?

本来、実業家としても、知識人としても近世日本史の一ページを飾ったであろう人物である角倉素庵が、
未だ全くをもって‘無名’の存在であるのは、この晩年の人生が大きな理由ではなかった!
素庵の魂は、今年の琳派400年をどのような気持ちで眺めているのでしょうか。
雷神の絵を見ながら、静かに語りかけたいと思います。

琳派400年 俵屋宗達と角倉素庵の友情物語。~その弐~

2015-06-10 15:46:08 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
父了以亡き後、角倉家の家督を継い素庵は、幕府より淀川通船輸送管理者や
木曽山巨材採運使(尾張藩)、近江国坂田郡代官の任命されるなど
隆々たる事業展開を遂げましたが、寛永四年(1627)に突然、予期せぬ病
ライ(ハンセン病)に倒れ、家業を息子達に譲ることになりました。
素庵はこの不運を宿命として受け入れ 嵯峨千光寺跡にひっそりと隠棲します。
当時、ライ病は、一族のケガレとして乞食として放浪の旅 に出るか、
生涯、物乞いの生活を送るか、どちらかの選択せざるおえないほどの差別と偏見を受けていました。
素庵の息子たちは父の心中を察し、嵯峨千光寺の跡地にひっそりと隠棲させたのです。
その後、追い打ちをかけるように素庵に不運が襲います。素庵は光を失ったのです。
それでも素庵は師・藤原惺窩から託された 『文章達徳録』の増補と『本朝文粋』の校訂を続行するなど
、いのち尽きるまで学術と文化の追求に情熱を注いだのです。
しかし、当時、ライ者に直接関わることは、世間の掟に背くことであり、世間から見捨てられた身である
素庵に書籍の出版を協力する者はありませんでした。

そんな姿をみた宗達は、素庵が校訂した『本朝文粋』を古活字版で刊行することで、
素庵の大恩に報いることを決心したのでした。それは宗達にとって絵筆活動を辞するほどの決意でした。
事実、宗達はこれを期に筆を置く覚悟があったといいます。
そして素庵が校訂した『本朝文粋』は寛永七年(1630)に出版されました。

しかし、運命は思わぬ方向へ宗達を導きました。
これを読んだ後水尾院が絶賛し、その刊行に対する褒賞として、宗達に「法橋位」を贈ったのです。
宗達は慣例に従い、「楊梅図」ほか屛風絵 三双を描き、後水尾院の仙洞御所、
東福門院の女院御所、明正天皇の禁裏御所に進上しました。
すると次いで大名、門跡寺院、町衆などから注文が入り、絵師を辞めることが許されなくなったのです。
その後、宗達は寛永九年から十年にかけて「風神雷神図屛風」を描き、
益田家本「伊勢物語図色 紙」三十六図を描くなど、、親王、公家、僧侶、大名、連歌師、町衆たちから
注文が相次ぎ、絵師・宗達の名は都から全国に轟きました。
 
素庵の墓は角倉家の菩提寺の二尊院ではなく、素庵の遺命により、風水地理に基づき
嵯峨化野念仏寺の竹やぶの中に建てられました。
そしてその墓から、角倉一族の繁栄と宗達の活躍を見守ったのです。

琳派400年、俵屋宗達と角倉素庵の友情ものがたり。~その壱~

2015-06-10 09:02:14 | 角倉プロジェクト・世界遺産事業
「琳派」とは江戸時代初期に本阿弥光悦と俵屋宗達が創始し尾た芸術表現技法のことで、
彼らに強く影響を受けた尾形光琳や乾山兄弟によって後年発展しました。
漢画の技法をその基礎におきつつも、大和絵の技法や題材も取り込んだ、
独自のデザイン性に富んだ様式を編み出しました。
京都の北・鷹峯に光悦が開いた「光悦村」から日本中へ広がった芸術様式・琳派が生まれて400年。
その記念して今年、京都では様々が行事が行われています。

そしてこの保津川にもこの琳派と縁浅からぬ物語があることをご紹介したいと思います。
保津川下りの創業者といえる角倉素庵と、琳派の人たちとの友情のがたり。
角倉素庵はもうご紹介するまでもなく、保津川下りの創設者・角倉了以の息子で了以の片腕として
保津川、富士川、高瀬川開削を成し遂げ、朱印船による海外貿易を手がけた大商人です。
素庵は晩年、事業を息子たちに譲り、生来、希望をしてた文化創作への道を選びました。
そこで出版業を立ち上げ、本阿弥光悦、俵屋宗達らの協力を得て「嵯峨本」といわれる古活字本を出版しています。
西洋から伝わった最先端の木活字を用い、用紙・装丁に豪華な意匠を施した美本として
世界的に高い評価を得てる嵯峨本には「伊勢物語」「観世流謡本」など13点が現存し、
その編集者、作成者の名を取り、光悦本や角倉本ともいわれています。
特に俵屋宗達と素庵はお互いの才能にリスペクトされ、友情を深めていきます。

そしてその後の素庵の数奇な運命が、宗達に傑作を生み出す源になるのです。