かわたれどきの頁繰り (小野寺秀也)

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

田澤拓也 『無用の達人 山崎方代』 (角川書店、平成15年)

2012年07月11日 | 読書

 この本は山崎方代論でも、歌論でもない。評論ではなくて、どうしたって伝記である。それなのに面白い。

 これは一般論だけれども、伝記というのはじつにつまらない。強制的に読まされた小学校低学年以来50年以上そう思い続けてきたし、いまでもそう固く信じている。
 まず、伝記は説教くさくて嫌だ。いったん伝記の主人公に取り上げたら、石にけつまずいて転んだことも思想的な信念に基づいた行為のように書かれたりする。たいがい伝記作家は文章が下手(50年前はそうだった。いまは読まないから知らない)なので、実際にあったのかどうか疑わしくなるようなリアリティのないエピソードが並べられる。小池光は次のような歌を詠んでいる。 

 偉人あれば偉人にかならず逸話あり近代少年に読ましむる為 [1]

  つまり、伝記の存在意義がすでに胡散くさいのである。ここまで書いてきて気がついたが、私の伝記嫌いは小学生のまんまである。つまり、ここでいう伝記とは幼児、児童向けの伝記のことだった。
 しかし、大人向けのはずの山崎方代についても、私が「伝記」に括って毛嫌いしてしまいたくなるような記述が出版されていたりする(名前はけっして出さないけれども)。

  この本が面白いのはもちろん著者の才能によるのだけれども、徹底した取材に基づいていることである。本人も許しを得て、主を失った「方代艸庵」に寝泊まりをすることから始め、方代の周辺の人に多くを語らせるという手法を採っている。つまり、自分の解釈に都合のよい言葉だけを借用するというような安易な手法を採用していないのである。とりわけ、方代のたった一つの恋、見も知らぬ人に恋したという伝説的な恋の対象、広中淳子という女性を捜し出すことに成功して取材していることは、この本が伝説的な方代を伝説的に(つまりいい加減な想像力で)書いてはいないという象徴的な証拠だと思う。
 そして、なによりも関係者が語る方代像が、とりもなおさず方代の歌論になっていることである。「歌論」というのが言い過ぎであれば、「方代の作歌の秘密に限りなく近づいている」と言い直しても良い。

 そのいくつかをピックアップしてみよう。 

  誤って生れ来しことのあやまちを最後に許し死なしめ給え

 合同歌集『現代』におさめられている方代のこの一首が石井〔三佐子〕はどうしても納得できない。そこで方代が歌会に顔を出したとき「だって気がついたときには、もう自分が生まれていたんでしょう。頼んで生んでもらったわけではないのだし、そんなに小っちゃくなることはないでしょう」と食いさがったが、方代は、やはり答えない。だが、どうしても気になる石井は一人で手広の艸庵を訪ね、再び大真面目に力説した。
「方代さん、なぜそんなに自分を責めるの。そんなに卑屈にならないで胸を張っていてほしい。私だって気づいたときにはもうこの世にいたんだから。生まれてこなければ、よいことも嫌なことも何もなかったわけだから」、
 
方代は石井の問いかけを無言で聞いている。むきになって熱弁をふるう石井に困惑しているようだ。ついに根負けしたように、一言、とぼけた軽い調子でいう。

「だって、こうしなきや短歌にならないじゃん」 (p. 35-6)

 それにしても、会うたび、こんなに酔っぱらってばかりでは、呼びだしておきながら失礼ではないか。ある日、怒った山形〔裕子〕は、方代より先にカップ酒のふたをとる。山形は酒に弱い。たちまち酔いがまわって鶴岡八幡宮の石段でダウンし、うずくまる。方代はおろおろと少しはなれたところで山形の様子をうかがっている。やがて山形が立ちあがると、方代はすりよってきて「酒はもうよすよ」としんみりという。
「本当はもう酒も煙草もいやなんだけんど、方代のトレードマークになっているのでやめられないんだ。でも、これからは公式のときだけにするよ」
 酒の公式のときとはどんなときなのかと山形は思うが、たしかに以後、街を歩きながら酒を飲んだり煙草を吸うことはなくなる。ところが新たな難題が持ちあがる。酒に酔わない方代は糞真面目で怒りやすくて会話がまったく面白くないのである。とくに女性と話すとき、方代は酒の力が必要なのだ。 (p. 57)

「私が先生と知りあった一年後に刊行された第三歌集『こおろぎ』に「一息に般若心経の一巻を写し終えたりまだだいじょうぶ」という一首があります。実は、この歌は、もとは「一息に焼酎一杯を飲み終えたりまだだいじょうぶ」だったのです。先生は「焼酎一杯」のところがつまらないなといって、数分間、私の見ている前で「う~ん、出ろ出ろ、う~ん、う~ん」と呻吟した末に「うーん、般若心経はどうだ」といって、こういう歌にしてしまったのです。ちなみに先生は般若心経を写経したことなど一度もないとのことでした。」 〈山形裕子の独白〉 (p. 92)

方代はしばしば「放浪の歌人」「漂泊の歌人」などといわれるが、実際に暮らしたのは、故郷の右左口村をのぞけば、横浜市西区の浅間町、同戸塚区(現栄区)の田谷、そして鎌倉市手広と、狭い範囲に限定されている。戦後一時期の風太郎生活なるものも浅間町の姉の家を出たり入ったりの暮らしだし、目が不自由なせいもあってか、とくに旅行好きなわけでもない。現実は、むしろ、およそ放浪や漂泊とは縁遠い「定住」の人なのである。 (p. 137-8)

会っても二人は短歌の話はほとんどしない。ただ、一度、梅雨どきの石榴の花がぼたぼたと落ちるころ手広を訪問したときのことである。方代がふと口にする。
「石榴は、あれは、るり色っていうんだろ」
 えっと鳥海〔昭子〕はひそかに驚く。
「方代さん、るり色ってのは青よ」
 鳥海はつぶやくように口にしたので方代の耳にとどいたかどうかはわからない。話題はそれきりで終わった。だが方代には鳥海の指摘が聞こえたはずである。……

  るり色の冠つけし鶏が男巡礼に道をゆずれり

  るり色の柘榴の花のきわだちて日本列島梅雨に入りたり  (p. 192-3)


  なつかしい甲陽軍鑑全巻を揃へてほっと安気なんだよ

 だが方代が少年時代から『甲陽軍鑑』を愛読していた形跡はない。方代の遺品をまとめた『山崎方代旧蔵資料目録』によると、蔵書のなかに『甲陽軍鑑』は「すり切れた奴」も「最近新しく買った」のも見あたらない。ただし甲府市内の出版社から五八年一一月二日の日付で「甲陽軍鑑二冊」を購入した旨の領収証コピーがのこされているので、のちに紛失したか贈呈したかはともかく、この時期、同書を購入したのは事実と思われる。ちょうど同時期の「短歌」五九年一月号にも、それと関連するような次の一首がある。

  おのがじし冬の田螺は子もちなり甲陽軍鑑には出ていない

 遺品が何らかの事情で紛失したのだとすれば「すり切れた奴」もともに蔵書中から消えさった可能性はある。
 けれども方代の歌のなかに「甲陽軍鑑」が出てくるのは、わずかに、この晩年の二首だけなのである。 (p. 232)



[1] 「現代短歌文庫65 続々 小池光歌集」(砂子屋書房 2008年) p. 112。