日守麟伍の和歌(うた)日記 Ringo Himori's Diary of Japanese Poetry

大和言葉の言霊の響きを求めて Quest for the sonancy of Japanese word

「うつせみの」「うつしみの」の歌

2011年09月28日 | 日記
 前回の、力が抜け、影の薄くなったような歌について、思い出したことがあります。ロベルト・ムージルというドイツ語圏の作家に、『特性のない男』という未完の大著があり、その遺稿でしたか、「秋になって涼しくなると、夏の暑さに膨らんでいた大気がしぼんだようになった」という一節がありました。前回の歌を詠んだ時の感覚は、これです。
 ムージルには、ほかにも見事な表現が多く、まるで長大な小説の中に、詩がちりばめられているかのようです。近いうちに、いくつか紹介したいと思います。


 さらに前に、「うつせみの世とこそ思へ現身の妹の恋しき止まずてしきる」という歌を詠んで、どこかにありそうだと書きました。まだ探し出せておりませんが、つぎの万葉歌には、やや似た雰囲気があります。前後の歌と比べると、場違いなほど近代的な歌に聞こえるのは、「ともしび」という言葉に、ロシア民謡の翻訳「ともしび」を連想するからかもしれません。 

ともしびの影にかがよふうつせみの妹の笑まひし面影に見ゆ(万葉集、2642)

 なお、「うつせみの」の歌は、5句目の「止までしきるを」とするとやや古風な響きになり、「しきりて止まず」とすると、「しき」の音が重なり、面白味が出るかもしれません。

うつせみの世とこそ思へ現身の妹の恋しき止までしきるを

うつせみの世とこそ思へ現身の妹の恋しきしきりて止まず

どちらがお好きでしょうか?


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『歌物語 花の風』全文掲載、2011年2月28日(本ブログ)



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時空を超えた対話

2011年09月26日 | 日記
 しばらく前、知人の紹介で、源平時代に、子どものまま世を去った「霊」(と称する人格)と対話をする機会がありました。こういう現象に知識がない人が多いと思いますので、細かい話はいたしませんが、私の和歌の話題になり、たまたまプリントアウトしたものを持参しており、いくつか読んでもらいました。

 「変な字があるね」と言われたのは、書き込みの数字や記号についてですが、ほぼ正確に理解して、私の知識がぼんやしていたところも、指摘されて、「季語が3つあるのはよくないよ」「自分ならこう詠む」「返歌をしよう」など、臨機応変の対応で、また歴史や政治に関しても首尾一貫した話が続き、なかなか面白い時間を過ごしました。

 通常の人格に戻った当人(おおまかには「霊媒」と呼ばれ得る人)には、まったく古典の知識はないとのことです。この「源平時代に子どものまま世を去った」と称する人格が誰か(霊媒の無意識か、その他)はともかく、面白い会話ができる知識と能力があることは確かで、したがって会話を話題にするのは正当だと思います。

 暑さが終わって、和歌がぱったり出てこなくなりました。仕事が忙しくなって、散歩をしなくなったからかもしれません。散歩をしていると、有縁無縁の人の「言霊」が降ってくるような気がしますから。昨日、つぎのような歌ができましたが、内外とも力が抜け落ちた、妙に影の薄いものになりました。一区切りということでしょうか。

窓近く 物音もなき 淡き日に あをる葉影の ゆらぎかがよふ(麟伍)



***『歌物語 花の風』2011年2月28日全文掲載(gooブログ版)***


なお、霊界通信については、『<霊>の探究』(春秋社、2005)という本に、わかりやすくまとまった記述があります。参考までにご紹介します。













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和歌のオリジナリティとリアリティ

2011年09月20日 | 日記
古語短歌の楽屋裏をお見せしましたので、これを参考に、あるいは他の和歌をご参考に、ご自分でも和歌を実作されることをお勧めします。その際、独自性にこだわる必要はありません。どこかで聞いたような歌でも、それが実感に即して詠まれたものであれば、本人にとってはリアルで価値あるものです。極端に言えば、作者が誰であるかは問題ではなく、リアリティをもって詠んでいるかどうかが、自他にとって一番の問題です。万一、自分が詠んだ(つもりの)歌に酷似した、あるいはほとんど同じ古典作品があるのに気付き、思いがけない一致に驚いたら、自分は無意識のうちに古典を鑑賞し、演奏家が音楽を演奏するように、共感的に再上演したのだと考えることができます。

 もともと、三十一文字という少ない音節からなる和歌は、オリジナリティを主張するのが、難しい文学形式です。作曲もした指揮者(L・バーンスタインか誰か)が、「現代ではもう作曲にオリジナリティを求めることはできない。演奏にオリジナリティを発揮するしかない」と言ったのが、まさに当たっています。

音の可能な組み合わせは、機械的には七〇(五十音に濁音、半濁音その他を加えて)の三〇乗くらいで、膨大と言えば膨大ですが、長大な文書は何十万、何百万乗になるでしょうから、桁違いに少ない量です。勅撰集の古典すら、四季の歌、恋の歌を見ていると、初心者にはどれも似たり寄ったりに見えます。「盗作」「パクリ」「パロディ」と言われかねないものも、「本歌取り」という立派な技法になっているほどです。このように、よく似た歌は、同じような感動、時空、記憶が共有されたもの、と考えるのが、和歌の世界です。

すでに述べましたように、私の作品にも、古典とよく似たものがあります。「懐かしき妹が姿を夢に・・」は大伴家持の古歌と似ているのに気付きました。「空せみの世とこそ思へ・・」はどこかにありそうですが、まだ探し出せておりません。どこにあるか気付かれたら、どうかお教えください。なお、コメントは受け付けておりませんので、ご自分のブログその他で、「日守麟伍が作ったと称している「空せみの世とこそ思へ現し身の妹の恋しき頻りて止まず(止まで頻るを)」は、○○の歌とほとんど同じだ」とご指摘ください。こちらから、「日守麟伍」で検索いたします。あるいは、私の連絡先をご存知の方は、メールその他で、直にお教えくだされば幸いです。


 『歌物語 花の風』は、ありふれた恋愛ストーリーに載せて、歌をつづっています。和歌がわかりにくい方は、まず地の文と現代語訳だけを読んでいただくと、ドラマのようにわかりやすいでしょう。その上で、ドラマのBGMのつもりで、古語短歌を読みあげていただくと、違う感動を感じるのではないかと思います。そのうち、歌だけを整理した和歌集をアップしますので、上級者の方はそちらをご覧ください。


***『歌物語 花の風』2011年2月28日全文掲載(gooブログ版)***

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『花の風』巻頭歌、推敲

2011年09月17日 | 日記
『花の風』の巻頭歌は2首です。

妹や聞く 我が恋ひをれば 言霊の 響きは繁し 憧るるほど

立ち並める 岩屋に注ぐ 花の風 夢の名残を 弔ふ如く


 1首めは、思いが嵩じると、魂が遊離して、病気になるという、いわゆる「かげのわずらい」をもとにした歌です。『源氏物語』やそれを脚色した謡曲『葵上』に、六条御息所が光源氏に執心するあまり、魂が抜け出して、生霊となって苦しい思いをする、という物語があります。謡曲には、このような恋の執着が相手に祟る物語が、おびただしく見られます。「恨めしや」というセリフは、近世に幽霊の決まり文句になりますが、その由来は、謡曲で完成された恋の執心にあるようです。現代語で言えば、死後も続く、来世にも続く、ストーカー的メンタリティ、となるでしょうか。私は最近、このような「恨みがましさ」が、日本的性格の最悪の側面になっている、と思うようになりました。自己主張が強くなく、自制心が強いというのは、美徳でもありますが、「美徳を裏返すと悪徳になる」という通則どおり、気持ちを抑えるだけで浄化できなければ、内圧が高まり、外に対する恨みとなって、噴出、漏洩、浸潤してしまいます。しかし、推敲するのは、この歌ではありません。

 2首めの1句の響きがよくないことは、ずっと感じておりました。巻頭歌にするぐらいですから、自分では気に入っている情景であることは、間違いありません。どうにか推敲して、収まりがいい姿を取りたいと思います。
 「畳なはる」「畳なづく」といった言葉も、考えました。「大和は国のまほろば畳なづく・・・」という日本武尊の歌を、連想するかもしれません。墓石が連なっている様が、表現できるかもしれません。
 墓石の連なる情景ではなく、静かな様子を表すことにして、「人もなき」「音もなき」を考え、最終的には後者にしました。あわせて「岩屋」は「霊屋(たまや)」に、「注ぐ」は清音で「注く」に、「弔ふ如く」は「弔ふが如」としました。推敲後の歌は、つぎのとおりです。推敲前と見比べてください。

音もなき 霊屋に注く 花の風 夢の名残を 弔ふが如


***『歌物語 花の風』2011年2月28日全文掲載(gooブログ版)***






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昼間の淡き月影

2011年09月13日 | 日記
数日前、まだ明るいうちに、月が東の空に浮かんでいるのを、明かりとりの窓越しに見ました。中秋の名月が間近いのに気付き、しばらくのあいだ、薄白い月を思い浮かべているうちに、古典にはない趣向の歌ができました。
秋の月を詠んだ歌は、すでにご紹介したものを含めて数多いのですが、夜と明け方の月、有明の月を詠んだものがほとんどで、私の知っている限り、昼間の月は詠まれていません。できたのは、かなり趣向の変わった、つぎのような歌です。

なおくれぬ まさおきそらに すきとおる たかまどのむた あわきつきかげ
なお暮れぬ ま青き空に 透きとほる 高窓のむた 淡き月影(麟伍)
(日暮れ近くになってもまだ真っ青な空に、透き通るような淡い月の姿が、高い窓を枠にして、透き通るように見えています)

明るい空の月を歌っているのが、どれくらいあるかと、探してみると、玉葉集ではつぎの御製のみでした。一句目が似ていて、興味深く思いました。

まだ暮れぬ 空の光と 見るほどに 知られで月の 影になりぬる(院御製、秋下)
(昼間の光がまだ暮れないと思っているうちに、いつの間にか、月の光に照らされていることだ)

あらかじめこの歌を知っていて、昼間の月の歌を詠んだわけではなく、また趣向(心)もまったく違いますが、あらぬ疑いをかけられるよりは、逆説的な本歌取り、ということにしても結構です。
 「有明の月」という主題で、日光に白むやや変わった情景を描いたのが、つぎの歌です。

白みゆく 空のひかりに 影消えて 姿ばかりぞ 有明の月(秋下、朔平門院)
(白々と明けてゆく空の光に、有明の月の光は薄れて、形ばかりが淡く残っていることだ)

私の歌は、「透き通る」という表現が、現代語そのままでありながら、古語としても鋭い響きをもっており、昼間の月の薄さを効果的に詠み得ているのではないかと思います。


なお、先日アップした歌を、姿も響きも収まりが悪いので、若干推敲しました。

てりわたる くさのにかかる くもかげの かでのともなく すそひかれゆく
照り渡る 草野にかゝる 雲影の 風の音もなく 裾引かれゆく(麟伍)
(よく晴れて、風もない広い草の原にいると、上空を流れる雲の大きな影が、あたりを音もなく覆って暗くなると、衣の裾が引かれるように、滑っていきました。)


***『歌物語 花の風』2011年2月28日全文掲載(gooブログ版)***

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