日守麟伍の和歌(うた)日記 Ringo Himori's Diary of Japanese Poetry

大和言葉の言霊の響きを求めて Quest for the sonancy of Japanese word

歌道と仏道(藤原俊成とその後)

2011年09月09日 | 日記
『後鳥羽院御口伝』には、俊成について、「やさしく艶に、心も深く、あはれなるところも」ある、という評価があります。西行については、「心も殊に深く」「生得の歌人」で、真似してはならない、という評価です。定家については、「生得の上手」であるが、「わが心に叶はぬ」ものを「歌見知らず」と断定する自分勝手な「偏執」のもの、と両価的に評価しています。反りが合わなかったようです。

藤原俊成が最晩年、歌作りに没頭して仏道を疎かにしたことに迷いを覚え、住吉神社に参籠したとき、七日目に住吉明神が夢に示現し、「和歌と仏道は別の物ではない」と告げられた、という有名なエピソードがあります。「言葉の戯れ」とされる和歌が、念仏や禅定となって、仏道に通じることを確信し、さらに歌に精進したということです(『正徹物語』五八)。

 俊成の歌論『古来風体抄』(『新編古典文学全集』小学館)を紐解いてみると、本文の冒頭は、歌の良し悪し、心の奥深さを、天台止観になぞらえて考えること、歌の深い道は、「空・仮・中の三諦」に似ているので、仏道によって説明する、と書かれています。求めるものが、仏教的な美であった、ということで、多くの求道的な歌人に共通する姿勢です。これらを「達磨宗」と揶揄する人々がいたのも、そのような姿勢が一定の存在感を持っていたことを示しています。

俊成は晩年に至り、和歌を詠むことは仏道修行である、という確信を強めました。「釈教歌」が一巻として独立するのは、『千載和歌集』(俊成撰)からということも示唆的です。歌道と仏道の結び付きを考えるのに、俊成の和歌と歌論は、恰好の手がかりになるはずです。歌道と仏道の結びつきは、外向きの社交的な能書きではなく、確信を宣言したものと読まねばなりません。宣言を尊重して、再録しておきましょう。どうぞ声に出してお読みください。

この倭歌の深き義によりて、法文の無尽なるを悟り、往生極楽の縁を結び、普賢の願海に入りて、この詠歌のことばを翻して、仏を讃め奉り、法を聞きてあまねく十方の仏土に往詣し、まづは娑婆の衆生を引導せんとなり(古来風躰抄)

俊成らによって、「歌道が仏道に通じる」という思想が一般的になったのであれば、それ以後の仏教者の歌は、「釈教歌」以外も、基本的にはすべて、「空観」「中観」を背景に持っていることになります。代表的な僧侶・歌人で、定家の同世代人、定家によって「抜群の賢者」と評された慈円(天台座主)の歌は、歴史観も含めてその典型で、和歌は「二諦の色を意識」して、「三業の悟り」を表現する「観音の実語」である、というように述べています。二諦とは「真諦」と「俗諦」、三業とは身・口・意の行ないのことです。最もわかりやすい歌を、いくつかあげてみましょう。

身ばかりは さすがうき世を めぐれども 心は山に ありあけの月(慈円)

山ざとに 心ばかりは うつりゐて なにとかまよふ うき身なるらん(慈円)

うき世いとふ 心の色を 人はみよ ちる言の葉を よそに思はで(慈円)


***『歌物語 花の風』2011年2月28日全文掲載(gooブログ版)***


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本日の追加

2011年09月06日 | 日記
 会津八一が、古語を、時代にこだわらずに使っていることについては、批判もあったようです。私も八一と同じ立場で、古代の語義や用法と、中古、中世の語義や用法を、時代では区別せずに、効果が出るように、用いています。近世独自の言葉遣いは、近代と同様の弊害がありますので、使っておりません。

 理由その他について、もう少し細かくは、『歌物語 花の風 [読み仮名・現代語訳付]』(2011年2月28日全文)の「解説」で述べておりますので、ご参照ください。

 なお、前に予告しました、藤原俊成と天台止観の話(よく知られたもの)については、他の話題とからめて書きますので、もうしばらくお待ちください。


***『歌物語 花の風』2011年2月28日全文掲載(gooブログ版)***
 

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目利き向けの芸術/目利かず向けの芸術

2011年09月06日 | 日記
 近現代に新境地を開いた歌人は少なくありません。正岡子規、与謝野晶子、斉藤茂吉、石川啄木、釈迢空、若山牧水などが、文学史的に重要な名前だろうと思います。これに、迢空が高く評価した同時代の異色の歌人として、会津八一を加えるべきでしょう。

 このうち、私がよく知っているのは、釈迢空=折口信夫に関してだけで、ほかの歌人についてはあまり知識がありませんが、断片的に読んだ範囲では、迢空短歌に最も関心を惹かれます。

 わかりにくさという意味では、迢空と八一は最右翼にいます。大きな理由の1つは、この両者が、古語の語彙と文法を用いたことにあります。とくに八一は、現代語短歌を主張する立場からは、時代錯誤と見えるほどで、しかも全文が平仮名書きのため、読み取りにくくなっています。たとえば、『南京(なんきょう。奈良のこと)新唱』のつぎの歌。

こがくれて あらそふ らしき さをしか の
つの の ひびき に よ は くだち つつ

 漢字を混ぜれば、「木隠れて争ふらしき小牡鹿の角の響きに夜は降ちつつ」となり、意味は取りやすくなります、私としてはこれにルビを振ればよいと思います。八一か迢空かが、「苦労して詠んだ歌だから、苦労して読んでもらいたい」という意味のことを言っていますが、無用すぎる苦労を要求しては、読者が離れていくのではないでしょうか。

 会津八一は、中学校の教科書に載っていた和歌に感動したのをきっかけに、ほとんど師匠なく独学して一家を成した人ですが、天性の才能は、現世の師匠を必要としません。定家が、「和歌に師匠なし、ただ旧歌をもって師となす」(『詠歌大概』)と言っているとおりです。どのジャンルでも、手引きが必要、かつ有効なのは、入門・初歩の段階で、頂点に近付けば近付くほど、自分で工夫するほかはありません。

 迢空には師匠があり弟子がありましたので、また市井の人事の歌も詠みましたので、八一よりはわかりやすいところがあります。しかし、啄木の歌を「人くさい」と批判し、「自分も同じような醜い歌を作った」と反省しているように、頂点的な作品は、限界的な叙情と叙景にあります。有名な「葛の花踏みしだかれて・・・」の歌は、市井の人事と限界的な描写の中間にあるものです。これを超えた限界領域の和歌は、一般人の鑑賞の範囲を超えており、とても「人口に膾炙」とはなりません。「わかる人だけわかればよい」というのは、栄光の頂点と失意のどん底を経た、世阿弥晩年の心境でした。『風姿花伝』で「衆人愛敬」という父・観阿弥の教えを筆記していたころの野心と、晩年の「冷えに冷えた」境地は、なんと隔たっていることでしょうか。

 「目利き」だけでなく「田舎野人」にもわからないと、芸は興隆しない、という興行家の立場は、正当です。他方、目利きにだけわかればよい、極端には自分だけ芸境がわかっていればよい、という立場も、正当です。どちらを取るかは、その人の処世方針の問題でしょう。究極の選択となれば、私は後者を取りたいと思います。

 

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