ユア・ハイハート、自らの神聖さと共に。

心や魂のこと。生きる勇気と希望。
世界はいつも儚く光に溢れてる。誰もが強くて優しい。No worries, 大丈夫。

高次の意図。

2019-05-05 17:56:50 | 癒し
ついに、ついに、というか・・先日、体調なんとかしないと、もうダメだ!!となりまして。
ゴールデンウィークの頃は、冬の疲れが出るのか(寒いの苦手)例年体調が良くないのですが、今年はもう一段階追い詰められた感覚になりました。そして対策としては、身体そのものより、心へのアプローチだと直感で思いました。
今日は、そこからの心の経過をシェアさせて頂ければと思います。

まず心に浮かんだのが、「敗北感」。なりたい自分になれなかった、という気持ちです。「敗けた・・」という気持ちが、煙と煤(すす)の感触さえも一緒に身体の中いっぱいに広がりました。その他として、

「長い時間を無駄にしてきた」「なんでもっと早くに振り返れなかったのか」という後悔の念。
「今からではもう遅い」という強迫観念と情けなさ、やはり後悔の念。自分への制裁の念。

今までもたくさんセルフケア(セラピー)してましたが、今回は抜け出せないかも・・と思うくらい、暗ーい気持ちになってしまったのです。

でも、この30年を振り返ってみたとき、「今が10年前だったら問題なかったんだけど」と。要は、この10年がモタモタしていたということです。でも更に振り返ってみると、問題は、この「5年間」が思ったように動けなかったんだという結論になりました。ここからが可笑しいのですが、「5年か、それなら全然取り返せるじゃん」と、一挙にとらえ方が変わったんですね。私の基準では、10年だと絶望的だけど、5年ならOK。ほぉーー。

次に、この「取り返す」という言葉に引っかかったので(その5年間を受容できていない、その5年間を悪と思っている)、シンプルに「何でだろう」と考えてみたところ、この5年間どころか、自分のほぼ全容を受容できていないことに気付いたのです。浮かんだのは「自分を許してない」という言葉でした。私が今後何ができたとしても、どういう自分になれたとしても、自分を許す(認めるかな?)ことはできないと思いました。
それは、ほぼ確信でした。

私は20歳代前半くらいのときに、理想の自分像として、本当に馬鹿馬鹿しい内容を設定し、強く自分にインストールしたのを覚えています。世界一お金持ちの家に生まれて、世界一の美女で、ハーバードかケンブリッジ大学卒業で・・って、これは本当です。何故、馬鹿馬鹿しいのか。それはお察しの通り、自分の事実とは違うからです。そして、例えそれが私の本当の出自で、その背景を持って、世界に誇る何か大きなことを成し遂げたとしても、それでも尚、決して自分を認めることも、許すこともしないだろうなぁ、という感想に至りました。

私の現在の価値観の範疇で、最高のスペックを持ち、考えられる最高のことをしたと仮定しても、自分を認めない、許さない・・

それなのに、「なりたい自分になれなかった」って何!?
「これが出来できない、あれば出来ないから私はダメ」って何!?
だって、それが出来たとしても、自分のこと認めないんでしょ?許さないんでしょ?
それなら、私が目指したいのは「そこ」じゃないよね? 
そこにたどり着けなかったからと言って、自分を責める必要はこれっぽちもないよね? 
そこにもう囚われなくていいんだ。負い目を持たなくていい。嬉しい(安心感)。

・・以上のように、思考が変遷したのですが、そうなると答えは一つでしかなく、「自分を認めたくない」「自分を許したくない」。私には、それがしたかったとしか考えられません。「何でだろう」という問いの答えはどこまでもシンプルでした。
自分を認められない、あるがままを許せない、それがゆえに苦しいのですが、あくまで私の場合、「苦しみたかったから」以外に私が納得する答えはありません。苦しいからこそ探求してきたのだと思います・・心理や魂、叡智について。少なくとも何年間かは、精神的な部分に重きを置いた年月を過ごしたかったのだと思います。そして、それを意識的に始めたのは、約10年前のことでした。

このように、私達は「高次の意図」を抱擁しています。
そして、それが結構、おかしいです。「あれ?」って。「うっそー!?」って。

自信や考え方って、根拠なく明るくなるし、根拠なく崩れてしまうものです。割とあっけなくて、でも、それがいいのだと私は思います。
自分自身や、今までの出来事に敵対するのは苦しいですよね。でも、多くの場合は誤解で、いったん誤解してしまえば、それが真実と信じ続けさせられてしまう。脳は省エネが好きだし、日本人は、どちらかといえば現状維持が好きな民族です。しかし、危険を察知する機能は現状維持優位性から起動しますから、バランスの問題と思います。でも、少しだけでもワイドレンジを追加すると、現状のとらえ方はあっけないほど変化します。今をもっと面白がれたらいいですね。私もそうしたいです!!



今日も読んで下さりありがとうございました。

今日も皆さま一人ひとりの良き一日でありますように。




私のカラー

2019-05-04 00:01:09 | 日記
先日、とあるイベントに参加したときに、私のイメージは「この色」とのご感想を頂きました。

その色とは、このブログテンプレートの色です。
このテンプレート名は「赤ワイン」・・はい、赤ワイン、大大好きです。




そして、リーディングからアロマオイルをブレンドして頂き、やっぱりこの色なんだよね・・と、
この色の小袋に入れて下さいました(^^)ありがとうございました!!




自分ではブルー系と思っていたので、斬新、そして新鮮な気持ち!! でも、しっくりきています。

最後は、大好きなこの曲で。30年位前の曲かな? 今なお、名曲ですね。

Chris De Burgh -- Lady In Red Live 2016


そういえば、この色に近いリップスティックも数か月前に買ってたんだっけ。
明日はそれを付けて、お出かけしよう。


今日も読んで下さりありがとうございました。

今日も、皆さまの愉しく健やかな一日でありますように。


あらためて、「変わる」ことについて。

2019-05-03 14:49:51 | 心理学
振り返れば、私は「変わる」についての解釈をじっくりとしたことがなかったかもしれません。
当ブログにも、似たようなことを繰り返し書いてきたにもかかわらずです。私は「前に進む」、ある一点へ「辿り着く」といった考えは常に持っていました。そのことと、今から書くことは、同じと言えば同じかもしれませんが、やはり決定的に違う点があります。

まず今までの考えからですが・・進み、辿り着く過程においては、様々な紆余曲折があって然るべきで、苦悩し、一つ一つ乗り越えていく。それが私という一人の人間の精神的成長を促すのだ。そういったピクチャーで私は生きてきました。
でも、実際は、頑固が好きなだけだったようです。何故なら、下記を見ると「変わる」ことを求めていないのが一目瞭然ではないですか!

・柔軟性がない。
・試行錯誤をしない。
・生産性、効率、より大きく貢献できる可能性を考えていない。
・ただ、障害(岩のイメージ)に向かい、力任せに打ち砕いて進んできただけ。
・基本的に「私は正しい」と思っている。

特に、最後の「私は正しい」・・自分が変わるという意識にフォーカスしなかったのは、この部分が非常に大きい気がします。これが決定的な違いなのだと思います。自分にこだわり過ぎていたのです。
 
 今、私は、変わるということの認識を違う角度から見つつあります。
単に、言語化する際の単語の違いだけかもしれませんが・・とりあえず、続けます。

今思うのは、「自在に」「毎秒」変わるこそが、「変わる」ことでないかということです。
それは、こだわらない、決めつけない、頑なにならない、ことかもしれません。
自在性や想像力が少なく、我が強い場合の「変わる」は、窮屈で不便でキツイと思えます。もっと言うなら、自分に対して迷惑とも思います。
(なかなか愚かしい・・でも、自分のことなので裁いても仕方ない!!)。

そして、自分の「我」に関して。
何に対して「満足」「快適」と思うか。「幸せ」「安心」と思うか。「楽しい」と思うか。。
これら気持ちは、何らかの状況や環境、関係性に対して生成されます。そういった対するもの(状況、環境、関係性)がなければ、発生し得えるものではないのです。

私自身が、どんなに精神的に成長したと思ったとして、それで自分の望みが叶うかと言うと、すべては相手(対象が)あってのこと。
例えば、個人の幸せしか要らない!!と無人島に渡ったとしても、恐らく、自然との関係性なくして幸せとは感じられないでしょう。
太陽が照らなけれ・・時化ばかりでは・・食べ物が獲れなければ・・私なら、決して幸せとは感じられない。

そのためにも、対するものとの健全で幸福なブリッジ(橋)が架けられるように注※自分が得たいものが得られるように・・も含みます)、
まず、自分で自分を満たし、自分が責任を取れる範囲のことを坦々と行っていくことが大切だと思います。
そうすることで、心の中に芯が育ち、安心感も大きくなり、外部からの影響(相手の感情や態度など)を受けにくくなります。
「・・そこまではケアできないわよ」と相手が思ってしまうようなことを、他者に求めてします人も多いです。
気付いていない場合が殆どかもしれません。私自身もそういうところは絶対にあるので、ますます自分自身との対話を図っていきたいです。

 それには、起こることを恐れないこと。
私も起こることを恐れ、起こったことに喧嘩を売り、起こったことから自分を護るという、何と不効率なことをしてたのか(本来の目的に労力使ってない!)驚くばかりですが、実際のところは、起きることを眺め、経験していくだけで良いのだと思います。

私達は、何者でもないし、何者にもなれないし、何者になる必要もない。その一方で、もう、すでに何者かです。今がどういう状態でも、自分の我(が)を認め、許して、自分自身に統合するよう努めましょう。そこは、努力という言葉を使った方がいいかもしれません。
私たちは常に、無かつ最善の存在ですが、その実感のためには「努力」という言葉の意味する作業を続ける必要があるのだと思います。喩えるなら鎧を脱いでいく作業ですので、恐怖を感じることもあるでしょう。でも、その一つ一つの経験のために、命を宿しているとも言えます。

そして、自分が無であり最善であることを思い出す過程で感じることや、経験すること・・それも私たちが変化と呼んでいるものだと思います。
時に難しいときはあります。でも私は、何を感じようが、何を経験しようが、本来は私達の核を脅かすものでは決してない!と、そう思っています。No worries! 大丈夫!!。


注※自分が得たいもの・・それは本当に得たいものかと見直すことはとても大切です。
望んでないのに、今までの思考のパターンで「そう」思っていることもあります。
それとは別に、自分が得たいものを得る(オーダーを出す)行為は、現実世界に生きている以上、していかなきゃいけない行為とも思ってます。
現実的に生み出せるものがないと、他者に奉仕できないですから。

長くなりました。申し訳ありません。


今日も最後まで読んで下さってありがとうございました。

今日も皆さまの素晴らしい一日でありますように。