ユア・ハイハート、自らの神聖さと共に。

心や魂のこと。生きる勇気と希望。
世界はいつも儚く光に溢れてる。誰もが強くて優しい。No worries, 大丈夫。

【転載】 阿蘇シャーマン神事

2011-02-26 01:39:30 | お知らせ
リンクも張らせて頂いているルテラムウのキョーコさんが、26日(土)27日(日)と阿蘇山で御神事を行われます。

以下抜粋と、キョーコさんのブログ『ヒーリングソウル』のこの記事URLを転載いたします。また、24日、25日と大切な内容も追記して下さっています。今この時間、千葉は、吹き荒れる風の音が静かに響いていますが、既にたくさんの思いがそれぞれのスピリットに届いているように感じています。正直私の筆では、内容を概略で説明することさえ出来ません。是非、下記にリンクしましたキョーコさんの記事もお読み下さい。ご一緒に「ありがとう」の言霊を響かせ、輝かせましょう。


さて2011年2月26日、27日、阿蘇シャーマン神事を行います。
これまで神事に関しては事後にさりげなくお伝えすることはあっても、事前にこのような形で公開することはありませんでしたが、今回は多くの方に参加してもらうことが必要だと感じています。

今回の阿蘇神事は、国外ではセドナやグアムのスピリットも参加します。
方法はシンプルです。
 
阿蘇神事を行う26日の日の出から日没までのお好きな時間に、地面や葉っぱ、樹木や花、あるいは風や水に直接触れて、心の中でこう祈ってください。

 ありがとう

これだけです。 

みなさまがベランダのプランターの木や花、あるいは風や水に手を触れて「ありがとう」の気持ちを伝えると植物や風・水たちは、かれらのネットワークを使って、遠い阿蘇やセドナ、グアムまで思いを届けてくれます。

好きな時間と書きましたが、各自が「いま、祈りたい、ありがとうと言いたい」と感じた瞬間がベストタイミングです。


ヒーリングソウル『阿蘇シャーマン神事』



今日も皆さん一人ひとりの掛け替えのない勇気が、大切な人に届く一日でありますように。


完全の苦しみ

2011-02-24 17:14:47 | 癒し
精神的にも肉体的にも疲れ過ぎた日々が続いたり、また、拒絶や喪失、裏切りという身を切られるような経験が続くと、余りに消耗してしまい、自分で何とかしようという気力は、最早残っていない場合も多いのではないでしょうか。私もそうでしたし、今も名残は十分に残っています。よく「仕事は裏切らない」という言葉を耳にしますが、これは、ここからも関連してるように思います。


あくまで一つの例ですが、幼少時に拒絶、喪失、裏切りに類する経験があった場合、子供として受け取って当然の愛情を与えらなかったとして、そこに傷や痛み、悲しみ、苦悩があります。「与えられる筈のものが、与えられなかった」と。

しかし、仕事の場合は、それを「与えられるもの」と思っている人は少ないのではないでしょうか。
経験を積み重ね、スキルを増やし・・・と、一般的にも主体的であるものでしょう。

そして、与えられて当然のものが与えられなかった場合、自分から何とかしようとする思考と行動に結び付かないのだと思います。且つ長い間、傷や痛みからずっと心身を守ってきたのですからバテバテです。このような状態のとき、差し伸べられる手、それも無条件に差し出される手や、無条件に自分の要求を満たしてくれる手を望むのは当然のことではないでしょうか。

しかしながら成長した暁に、子供のころのように一方的に求め、一方的に与えられる愛の中にい続けるのは大変に困難です。反対に、それは健全な関係とも言えません。

何故なら、誰しも求めているからです。そして、互いに与え合うからです。

理解しようとし、歩み寄るのが、大人になった今の関係性です。
そして時間をかけて、求め合い、許し合い、欠点や不完全さを受容していくものだと思います。その過程には、もちろん衝突も誤解もあるはずですが、時間をかけて共に生きる。「糸の半分」と書く絆は、このように少しづつ強まっていくのだと思います。以上のことからも、まず自分の欠乏や孤独を埋めて欲しい・・・この意識が前提としてタートする関係は次第に苦しくなってくるのも一方では自然かもしれません。


私の解釈ですが、「与えられなかった」・・・これは、実際がどうであったかどうかは別です。
自分に関係の無いところで責任を背負い続けたり、良心の呵責に耐え続けていたりなど、観念、思い込み、そこから生まれ、育ち続けてきた想念など、何かのきっかけや出来事から生まれたそれらの物達を事実として捉え、共生している場合もあります。これらは例えばヒプノセラピーで子供時代まで退行すると発見があると思いますが、とにかくも「与えられなかった」「関心を持ってもらえなかった」などの気持ちが残っているかどうかです。

大人になってからの傷を伴う経験も、その種は子供時代、またはそれ以前の過去世に発している場合が多いと私は思います。過去世から持ち越している課題や今生の役割、カルマの弁済も含めて誕生し、その子供時代があったということだとも言えます。そして「子供時代」と地点を限定すると、親や大人の全面的な世話がなければ日々を過ごせない=命の糧を全面的に依存し受身の存在なのに、与えられなかったという当時の意識やエネルギーが大人に成長した後も強く生き続けていて、これが無意識上であるが故に厄介なのだと思い至りました。

完全に受身でいて、自分の要求を満たす完全な愛を求め、それを手に入れるためには完全な自分にならなければと、強いる。誰かの役に立ちたい、立たなければ。そのような完全で立派な自分であれば、きっと完全な愛がもたらされる。よく耳にする「完璧主義者」とは、もしかしたら完全な愛を求め続けた姿なのかもしれません。求め続け、走り続け、思いやり続け、傷を傷と思わずがんばり続けた姿なのかもしれません。


しかし、私たちは皆、欠点だらけの不完全な存在です。

互いの欠点から、その時々の情けない気持ちや至らない言動から、互いにいろんな事を学んでいくのだと思います。公私、どんな関係でも相応の磨き粉として出会います。そして私個人の場合、ずっとずっと、自分が受けるだけの完全な愛を求めてたようです。至極平たく言うと、幼年、子供時代に受け取りたかった親の愛を、ずっと恋人、友人、周囲の全ての人々に対し求めていました。

でも、大人としてそれを続けていくのはどうなんだろう??と思い始められたとき、逆説的に(以上のことも踏まえてですが)「完全な自分でいなくてもいいんだ」という流れに辿り着いたのが本当に大きなことでした。

完全な愛を他者に求めなくてもいい。それは、完全ではないかもしれないけれど自分でする。では、完全な自分でなくてもいいし、それを強いる必要はない、という流れでした。そして、苦しかったのは、今も時に苦しいと思うのは、完全を求め、完全であろうとしていたからではないかと。今もそういう自分があるからからではないかと。

でも、完全な自分でなくてもいいとは、

完全さを求めてしまう、それはダメだ、不完全さを愛そう!という事でもありますが「完全さを求めてしまうのだなぁ」「完全が欲しいのだなぁ」と、在りのままを受容するのが、素のままで自然で、より心地良いように思いますし、より良い結果にも導いてくれるように思います。



私も、この部分での癒しは、ずっと続くかもしれません。でもそうします。
春も近く、たくさんの花が、少しずつ花びらを開き始めているのを感じるから。


今日も最後まで読んで下さって、本当にありがとうございます☆

今日も皆さんの一人ひとりの全てが輝き慈しまれる一日でありますように。


再生 巡る命

2011-02-15 18:54:01 | 
何故、人は人と諍う。
何故、人は人を嫌い、憎しみ合うのか。

人と人との営みを覗けば、
嫌い憎しみの気、渦が巻き、
ようよう保たれる世の均衡。

その理(ことわり)は、
勝者と敗者、
強権を持つ者、捥ぎ(もぎ)取られし弱者、
見捨てる者と、見捨てられる者を作り出し、

それぞれが、
安住の地を主張し、強要するのだ。

山頂の雪から流れ出でた清流は
濁流を消すべく
止めどなく、強く、速く。

岩はえぐられ、砂利を吹き飛ばし、もはや魚も住めぬ。


悠久の時が満ち、
その理に、閉じたまなじりを向けた今。

清流に雪の結晶が降り注ぐのを、確かに見た。

六角形の究極の美が、
溶けるを厭わず、その身を流れに捧ぐ。

見よ、命が生き返る。
再び生が生きる。


かくして濁流を許し、
濁流を受け抱く器となったとき、
心は騒ぎ、荒ぶもの。

初めて感じる空気の甘さ。
香しき花の彩り、交じり合った者だけに舞う。

空の青さを胸に吸い込み、土に手を汚せばいい。
命を受け取る者が、命を育み、
命を送り出す者に、命は授けられる。


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・

この詩は、数日前、夜中にムックリと起きて(笑)書いたものです。
上記は、何度か推敲したあとのものですが。

当初は何をテーマに綴った詩だったのか、自分でもよく分からなかったのですが、その翌日、水の神様、祓いの神様と祀られる「瀬織津姫命」についての詩ではないか思い至りました。

大祓詞(おおはらいことば)に次のように記述されている神様です。

遺る罪は在らじと祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末低山の末より佐久那太理に落ち多岐つ
早川の瀬に坐す瀬織津比売と伝ふ神 大海原に持出でなむ 此く持ち出で往なば 


この大祓い祝詞、6月と12月の大祓いの儀式では勿論、(全ての神社ではないかもしれませんが)朝のお勤めの言上でも唱えられる重要な祝詞です。穢れを川に流し、大海原まで運び去り世を清める。その御働きをなさる神様とあらせられるのですが、この神様については調べれば調べるほどに諸説入り乱れ、それこそ百花繚乱と申し上げては大変失礼な表現かもしれませんが、様々な神様に繋がり、同格、同体と見なされ、本当のところが良く解らない神様でもあります。

『古事記』にも『日本書記』にも、そのお名前が出ていません。
もう一つ、この二記を含めて三大歴史書と言われながらその存在を偽書として無視され続け、また神代の神々の実在性について触れている『先代旧事本紀』上での天道日女命様が瀬織津姫様であり、スサノオノミコト様の御子ニギハヤヒ尊のお后であることが、私にとっては最も分かり易く、ここを(あくまでも私的見解として)出発点もしくは核として、その存在に深い敬意を払いながら解釈を広げていければと思っています。

今日のところは平易に現在の思うところを述べたいと思いますが、
この天道日女命様の父君が、天日神命様=(かもしれない)根源神の一柱である天御中主神様の部分からでも、禊ぎ、祓い、水、滝の神様に納まる神様ではないと思うのです。地球意識ガイアに近い存在・・・自然を司り、生きとし生けるものの生殺与奪の権を握る存在なのではないでしょうか。

その方が、日ノ本の大王であったヒギハヤヒ尊のお后になる必要があった。その為に天より遣わされた方なのではないだろうかと。

ニギハヤヒ尊が初代神武天皇に国譲り後、存在を封じられて1千数百年。これもこの方の存在が大きく関与しているようにも思えてなりません。これはその後の藤原氏の隆盛。そして聖武天皇と光明皇后が執念を燃やした東大寺大仏建立にも繋がっていくのではないかと。。。また追々筆がまとまり次第、私的見解を書いていこうと思います。

また最後に、自然を司る・・・循環の始めと終わりを司るということで、五十音の「ア」から「ワ」まで、即ち「アワ」、海の泡より生まれしビーナス、といきなり強引にギリシャ神話まで飛びますが、弁財天様などに繋がるのもこれで頷けるような気が致します。また天も海も「アメ」と読むそうです。


今日も最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました☆

今日も皆さん一人ひとりが温かさと安らぎに包まれる一日でありますように。

続く自然災害

2011-02-06 21:11:14 | 癒し
先日、千葉県もインフルエンザ流行注意報が発令し、私もその直後に早速発症しました(笑(A型です)。

特に年末年始、私の周囲では風邪を引かれた方が沢山いらっしゃいました。かく言う私もです。
微熱程度に収まっておりましたが、昨年末は風邪を繰り返しておりました。その後も急に視力が落ちたり、歯茎が腫れたり・・・その後翌月インフルエンザですから、やはり疲れが残っていたんでしょうか。しかしお陰様で歯医者さんに通うようになりましたし、コンタクトの装着時間を減らしたりと、自分の身体に優しく出来ているように思います。なんて、ほったからかしの時間が長すぎるので、まだまだ全然足りませんけど(苦笑)。

天候も、今年は年明け早々に豪雪が続きました。
また現在宮崎県では、霧島連山・新燃岳の噴火活動により地元の方々は大変に不安なお気持ちで日々を過ごしていらっしゃいます。

ここ数年の恒常的な激しい気温差、そして国内でも続く自然災害。続くからといって風化させてはいけない。当たり前のことと思いたくありません。被害が広がりませんように。そして、一日も早く皆様のお心が休まりますようにお祈りしております。

もしよろしければ、宮崎の地と皆様を始めとする多くの方々へ届くよう下記の祝詞を唱えてみて下さい。音霊(おとだま)、声霊(こえだま)言霊(ことだま)が響き渡り、螺旋を描き、清らかな光となって届いてゆきます。


【天地一切清浄祓】

てんしょうじょう ちしょうじょう ないげしょうじょう ろっこんしょうじょうと はらいたまう
天清浄 地清浄 内外清浄 六根清浄と 祓給う

てんしょうじょうとは てんのしちようくよう にじゅうはっしゅくをきよめ
天清浄とは 天の七曜九曜 二十八宿を清め

ちしょうじょうとは ちのかみ さんじゅうろくじんを きよめ
地清浄とは 地の神三十六神を 清め

ないげしょうじょうとは かないさんぽうだいこうじんを きよめ
内外清浄とは 家内三寳大荒神を 清め

ろっこんしょうじょうとは そのみそのたいのけがれを
六根清浄とは 其身其體の穢れを

はらいたまえ きよめたまうことのよしを
祓給 清め給ふ事の由を

やおよろずのかみたち もろともに 
八百万の神等 諸共に

さおしかの やつのおんみみを ふりたててきこしめせともうす
小男鹿の 八の御耳を 振立て聞し食と申す



【龍神祝詞】


たかあまはらにましまして てんとちにみはたらきをあらわしたまうりゅうおうは
高天原に坐し坐して天と地に御働きを現し給う龍王は

だいうちゅうこんげんの みおやのみつかいにして いっさいをうみ いっさいをそだて
大宇宙根元の御祖の御使いにして一切を産み一切を育て

よろずのものをごしはいあらせたまう おうじんなれば
萬物を御支配あらせ給う王神なれば

ひふみよいむなやことの
一二三四五六七八九十の

とくさのみたからを おのがすがたとへんじたまいて
十種の御寶を己がすがたと変じ給いて

じざいじゆうに てんかいちかいじんかいを おさめたまう
自在自由に天界地界人界を治め給う

りゅうおうじんなるを とうとみうやまいて
龍王神なるを尊み敬いて

まことのむねひとすじに みつかえもうすことのよしを うけひきたまいて
眞の六根一筋に御仕え申すことの由を受け引き給いて

おろかなるこころのかずかずを いましめたまいて
愚かなる心の数々を戒め給いて

いっさいしゅじょうのつみけがれのころもを ぬぎさらしめたまいて
一切衆生の罪穢れの衣を脱ぎさらしめ給いて

よろずのものの やまいわざわいをも たちどころにはらいきよめたまい
萬物の病災をも立所に祓い清め給い

よろずせかいもみおやのもとにおさめせしめたまへと
萬世界も御親のもとに治めしせめ給へと

こいねがいたてまつることのよしをきこしめして
祈願奉ることの由をきこしめして

むねのうちにねんじもおす だいがんをじょうじゅなさしめたまへと
六根の内に念じ申す大願を成就なさしめ給へと

かしこみかしこみもおす
恐み恐み白す


九州地区が龍体の頭の部分と云われています。


こちらの祝詞集より拝借させて頂きました。


今日も最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました☆

今日も皆さん一人ひとりの温かさが必要な誰かに届く一日でありますように。


願いが叶うメカニズム

2011-02-04 01:14:51 | 癒し
極論を言えば、その願いに執着しないことではないでしょうか。そして叶っていないことにフォーカスしないことです。
私たちが身を置いている状況は様々で、精神的、肉体的、経済的において、非常に深く苦しい時間を過ごされている方も多いことと思います。全ての事象、万人に対する答えは無いに等しく、また今日書くことは私見に過ぎないことでもありますが、私なりに出来るだけロジカルに書き進めてみたいと思います。


執着しない、もしくは普段忘れているとは、そこに絶対的な安心と信頼があるからだと思います。
何に対する安心と信頼なのか。それは「自分自身」に対するものでしょう。

話は前後しますが、例えば「引き寄せ」という言葉は誤解を生んできたかもしれません。

自分に必要なものを「引き寄せる」
=それを自分は所持しておらず、だが必要としている。そしてそれは外部からやって来る・・・
という思い込みを多くの人に増幅させたように私は思います。

そしてそれを引き寄せるために、巷間「法則」と呼ばれているものに自分を沿わせるのです。完全に「叶えたいもの」や「引き寄せること」に力関係の勝利を渡してしまっています。そこに、自分に対する安心や信頼は存在するでしょうか。

力関係の軍配を、自分に上げなくてはなりません。
何故ならば、望んでいたものや叶った事柄を世の中を通し現実に活かしていくのは、他ならぬ私たちだからです。

例えば仕事、恋人、お金、自身の健康、近しい人の健康など願っていたものが手に入ったとします。これらは手に入っただけで「おしまい」なものではない筈です。やっと就けた職業で何に貢献していこう。愛する人との時間をいつまでも大切にするために何をすべきだろうか。大切な人の健康が戻り、これからも元気でいてもらいたい。そして自分にできることは・・・?など、新たな形で現実のステージを活きてもらう=新たな息吹を吹き込むのはあなたであり、私なのです。

自らの欠乏を埋めるために求めるのではなく、世の中に新たな息吹を自ら主体的に送り出そうとするとき、自身の中に願望として存在していたものは具現化するのではないかと思います。願望に選ばれるのではなく、あくまでも主体は私たち。魔法を探すのではなく、マジカルな自分になっていく。これは例外なく誰もがそのような存在であり、そのように力を付けてゆけます。そうしていくと何を望むか、何を手に入れようとしたいか・・・手段を模索するより、渇望するより、まず「何を」「何のために」にを悩むようになるのではないでしょうか。主導権はこちらにあるのですから。


+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・+・

以上のように限りなく逆説的ではありますが、「活かし」「新たな息吹を与え」ようとしたときに願いは叶っていくように思います。そこには執着がなく、叶っていない事へのフォーカスもありません。不安も恐れも無いことでしょう。

これは、願望に自分を明け渡していないことの証だと思います。ただ自分の可能性を知り、それを信じると同時に自分の可能性に心を開いている状態です。心を開いている以上、自分にとって都合の悪いことも受け取らざるを得ないときもあります。しかしながら、何事も良いとこ取りは出来ません。自分の都合の悪さを受け取らないことは、影が無く身が詰まらない平面の姿を選び、陰影が助ける個性や表現の自由を放棄していることと同じです。

そしてその都合の悪さが、気付きでありの成熟の種なのです。
それが元で挫折という経験があっても、周囲の方々を尊重すること、全てを生かす大いなる存在、自然、芸術など崇高なものへの畏敬の念を深い眠りから呼び覚ましてくれる性質も併せ持っています。謙虚であることは、エネルギーを穏やかにし自分を押し出そうとしません。それがかえって、自分が望むものを呼び寄せる結果となることは想像に難くないのではないでしょうか。

また善行は返ってくるということも、こういうことが一つなのではないでしょうか。
見返りを求めない純粋な行動は、本気で人の心を打ちます。それを受け取った人は同じように誰かの役に立てるようになりたい、と正味から思うものだと思うのです。直接奉仕した人からの「お返し」でなくても、これも心を開いている以上、誰かに返したいと熱望した見ず知らずの方のエネルギーを受け取り、結果として自分の願望と結実し具現化するということではないかと思いました。あくまでも一例としてですが。


昨日は2月3日。2011年旧暦元旦、そして新月でした。

今まで隠れていたもの、表に出ていたもの、真逆とは言い過ぎかもしれませんが、色々な「逆」が見えてくるかもしれません。
それも含めて、一日一日、何でもない日をつつがなく過ごしていければこれが幸せだと思います。

最後にこれは、1月中旬頃に頂いたメッセージです。

「勝て。自らの神聖さに賭けよ。」



今日も最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました☆

今日も皆さんの全てが輝き慈しまれる一日でありますように。