犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある幼児虐待死事件の判決前夜 その1

2010-10-12 23:54:52 | 国家・政治・刑罰
 裁判長が帰宅した後も、左陪席の判事補が判決の草稿を読み直してチェックしている。左陪席の判事補は、書記官である彼とも年が近い。主任書記官が「年下の上司」に対して屈折した尊敬の念を抱いているのに対して、彼は純粋にこの左陪席の判事補の見識を尊敬していた。
 彼は、この幼児虐待事件の立会いを全面的に任され、当初から傍聴席の手配などを行ってきた。彼も判事補もまだ若く、人の親ではない。その彼らが人の親の罪を裁く仕事に従事し、被告人夫婦を親として失格であると断罪することは、冷静に考えれば妙な話ではある。しかし、これを言ってしまうと裁判が成り立たないため、昔からこの点は突っ込まれないことになっている。

 判事補は、これほど量刑に悩んだ事件は初めてだと語った。被告人夫婦とも、我が子の命を奪うということの意味を理解しているとは思えず、ましてや実際に我が子の命を奪ったことの意味を理解しているとは思えなかった。判事補としても、裁判官席に対して頭を下げて謝罪されたところで、「謝る相手が違う」と言うしかない。
 人の世の罪と罰は、当然ながら、人の罪に対して人が与える罰である。そして、人間とは、我が子の命のためなら自分の命を犠牲にするのも厭わない存在である。そうであれば、逆に我が子の命を失わせた者についてこの種の罰を問題にすることは、そもそも最初から入口が逆なのではないか。ここにおいて、純粋な死者のための罰の概念が生じ、死を通じて初めて人の命の重さが認識される。

 被告人夫婦の犯行の原因を突き詰めていけば、3人の子供を育てられるだけの経済力もなかったのに、4人目の子供を作ったというところに答えは集約されてくる。しかも、この夫婦の享楽的かつ退廃的な人生への向き合い方は、絶望的なほど強固である。この点において、彼と判事補の感想は一致していた。判事補も彼も「子供を作る」という表現は嫌いであったが、被告人夫婦の犯行の原因を語る際に、この表現を避けることはできない。
 被告人夫婦は、4人目の妊娠を知った時に中絶をしなかったのは、お腹に宿った命の重さが理由であると述べた。弁護人はそれを受けて、夫婦は人の命の重さを深く考えるあまり、かえって最悪の結果を招いてしまったのだと主張した。判事補は、その理屈を断罪した。この夫婦は単に性的快感を得たいがために、避妊を怠っただけではないか。

 この夫婦には、人生に対する計画性が全くない。4人の子供を育てられないことが明らかであり、特に子供がもう1人欲しいという動機もなかったのであれば、避妊すればよいだけである。この点において、判事補と彼の意見も一致していた。これは生命倫理としても常識的な線だと彼は思う。経済的な問題を抜きにして、「子供の数は多ければ多いほど楽しい」という意見に与するほど彼は能天気ではない。
 これが避妊ではなく中絶の話となれば、激しい生命倫理の対立を呼び起こすところであり、彼にも答えが出せない。これに対して、避妊によって生まれなかった命に対して心を痛めることは、あまりにお人好し過ぎると彼は思う。この世に無数の男性と女性がおり、従って無数の精子と卵子があるならば、生まれなかった命もまた無数に想定できてしまうからである。


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フィクションです。

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