p.30~
文字もまた、天地間の万象がみずからをあらわす姿でなくてはならない。それは決してことばの表記形式というようなものではなく、存在の自己表現の形式そのものにほかならない。すなわちことばと同じ次元に立つところの、実在の概念化、客観化の方法にほかならないものといえよう。
p.33~
すべて名づけられたものはその実体をもつ。文字はこのようにして、実在の世界と不可分の関係において対応する。ことばの形式ではなく、ことばの意味する実体そのものの表示にほかならない。ことばにことだまがあるように、文字もまたそのような呪能をもつものであった。
p.124~
古代文字の構造が、形象の象徴性を最も有効に用い、必要最小限の意味的要素、すなわち形体素をもって明確な表現を成就していることは、容易に知ることができよう。これ以上の省略が困難と思われる限界のところで、文字が成立している。その一点一画のうちに字の形義が寄せられているのである。
p.293~
ことばは感性的脈絡をもつサブ言語と、論理的形式をになうメタ言語とに分けられるが、日常的な生活語としてよりも、むしろ文字化された言語としての性格が著しい漢字系のことばは、よりすぐれてメタ言語的であるといえよう。漢字は記号というよりも、むしろ意味であり象徴である。それはそれ自身の意味をもち、体系をもつ。
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白川静氏が批判する言語のプラグマティズムについては、実際に無数の言葉に連日追われ、クタクタになって仕事をしている立場としては、諦めと反発が入り混じったような妙な気分になります。忙しい仕事の渦中に置かれて初めて全身でわかったことですが、電話が鳴りっぱなしのときに何よりも腹が立つのが、画数の多い漢字です。1分1秒を争って目が回っているときに、画数の多い漢字はイライラして精神衛生を害します。
電話連絡のメモや覚え書きは時間との競争であり、次の電話が鳴るまでに効率よく流して行かないと、精神が持たなくなる部分があります。他方で、ミミズが這ったような走り書きは、あとで自分でも読めなくなり、その字を見返しているだけで気が重くなるところがあります。結局、画数の多い漢字を避けてカタカナばかりを使い、自身の肉体と精神の健康を守ることにより、私もプラグマティズム促進の一端を担っているように思います。