犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

十億の人に十億の母

2008-05-11 18:34:45 | 言語・論理・構造
「十億の人に十億の母あらむも 我が母にまさる母ありなむや」
現代語訳:世の中のすべての人には母親がいる(いた)。しかし、自分の母親よりも素晴らしく、そして尊く有り難い存在は、この世のどこを探してもいない。

これは、宗教家・哲学者の暁烏敏(あけがらす・はや、1877-1954)の歌である。彼の母親が亡くなったときに作られた『母を憶う歌』370首のうちの1つである。5月の第2日曜日は母の日であり、カーネーション贈る理由などのうんちくは広まっているが、この歌は現代の商業主義に合わないためか、あまり有名ではない。この歌の凄いところは、自らのことを語っていながら、十億人のすべての人に該当してしまうことである。「うちの母親は世界一だ」「いや、うちの母親のほうが上だ」といったランキング争いは論外として、「誰にとっても自分の母親は世界一だ」という安易な相対主義でもない。自分自身を除いた客観的な視点に安住することなく、生まれる国も時代も父親も母親も選ぶことができずに生まれてきた人間の存在の形式を端的に指摘しているのがこの歌である。

十億の人に十億の母がいる。兄妹を除けば、ここに言われている「母」とは、別人を指している。これは、「母」が2人称代名詞だからではなく、すべての1人称である「私」が存在することに基づく。例えば、「家に帰る」「学校へ行く」といったような言い回しにおいて、その「家」や「学校」は代名詞ではなく普通名詞であるが、それぞれ別の家や学校のことを指している。これと同じことである。近代社会の個人主義を貫徹すれば、論理的に夫婦別姓が推進され、戦前の「家制度」につながる考え方は否定されることになるが、話はそれほど簡単ではない。人間は自らの力によって生まれることはできず、気がついたときには母親によってこの世に存在させられている。その意味で、十億の自分はすべて何者でもなく、もしくは何者でもあるが、その十億の母もすべて何者でもなく、もしくは何者でもある。小難しいことを言わずに、親孝行をしていたほうが世の中平和である。

ちなみに、5月の第2日曜日は伝統的に司法試験の択一試験の日とされており、受験生の間では親不孝の日と言われている。試験問題の中では、母親は「1親等の直系血族の尊属」であるが、これを外で語ると感心されるか呆れられる。民法733条の再婚禁止期間は、憲法14条との関係でも重要論点である。また、民法772条の嫡出推定規定の解釈においては、「推定されない嫡出子」と「推定の及ばない子」を区別することが重要である。さらに、択一試験には相続のややこしい計算問題が出ることがあり、異母兄弟や隠し子が登場したり、子が母親を殺して相続欠格者となって孫に代襲相続が発生するような問題が出ることがある。このような問題を解く際には、「今年こそ合格して母親を安心させたい」という強い意志が大切になってくる。これをダブルスタンダードという。

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