それから二ヶ月が過ぎた。セミの合唱は少なくなり、夕方にはコオロギの声が聞こえるようになった。
空はブルーが薄くなり、雲が高い位置に出るようになった。僕は秋の定期演奏会に向けて、オーケストラのメンバーと一緒に、ほぼ毎日遅くまで練習を続けた。
今回の演奏の目玉は、ベルリオーズの幻想交響曲、作品十四だった。この曲はオーケストラがある程度実力がついたところで必ずと言っていいほど演奏する、いわば登竜門のような曲だ。第四楽章の『断頭台への行進』がやはり難しい。金管楽器のファンファーレと弦楽器のうねる波のようなパートが、一つに溶け合わなければいけない。それに後半のテンポが速くなる部分では、全員がどうしても突っ込みがちになる。僕はしばしば指揮棒で譜面台を叩き、リズムを正確にとらせることにかなりの時間を使った。
先月入ったばかりの女の娘が、トロンボーンのセカンドを担当することになった。テクニックはまだ未熟だが、音質はずば抜けていい。思い切りが良く、迷いのない音だ。
定期演奏会の二週間前の水曜日、いつものように夜遅く家に帰ると、様々な郵便物の中に、手書きの封書が一通あった。見覚えのある字だ。
他の郵便物は、ほとんどが保険の勧誘のようなものだった。それらをピアノの上に放り上げ、封書を開いてみた。サーモン・ピンクの便箋に、先々月来てもらったことのお礼と、その校歌の発表会を行うのでぜひ来て下さい、といった内容が書かれていた。
その発表会は土曜日の夕方からだった。暫く迷ったが、行くことにした。オーケストラには指揮の巧い部員もいることだし、各パートごとに詰めの練習をさせてもいい。
その日は、羊雲が空高くに整列していて、涼しい西風の吹く気分のいい日だった。養護学校の駐車場は満車だった。車通りのほとんどない側道に車を駐め、斜面を登り、正面玄関を入ってスリッパに履き替えたところで、鈴原さんが事務所から出てきた。前回のときとは違った、心を開いたような笑顔で迎えてくれた。
「お疲れ様です。お忙しいのに、ごめんなさい」
「大丈夫だよ。自分の曲の発表会なんだから来なくちゃね」
僕はそう言ってから、自分を訝しんだ。付き合いの浅い人に、このように気安く話すことは今までなかった。彼女も僕の態度に少し驚いたようだが、顔には笑みが広がった。
「合唱隊を呼んだのかな?」
「ううん、違うわ。歌うのは全員この学校の生徒よ」
「ええ、何だって?」
「みんな、今日までものすごく練習したの。ピアノはわたしが弾くのよ」
僕は混乱したまま、彼女のあとをついていった。大きなスライドドアーを開けると、こぢんまりとした講堂だった。席には生徒の親らしい人たちが座っていた。
つづく
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