日本ユング派・河合隼雄批判・林功三/心のノート ガラガラポン

2005-09-24 21:50:30 | 教育
心のノート ガラガラポンとは...2002年4月突如、学校現場に送られてきた「心のノート」。 文科省から「検定いっさいなし」という異例さで、7億3千万円かけられた法外なプレゼント・・・。心のノートは、教育基本法改悪や、「愛国心」が評価される通知票とともに、日本の教育の方向を大きくかえようとするものと言えます。私たちは公立小中学校に勤務するなか、心のノート周辺に現れた危険信号をしっかりキャッチし、発信・交流したいという思いで、このサイトを立ち上げました。

http://homepage3.nifty.com/gakuronet-takatsuki/index.html

学校の外から
日本ユング派・河合隼雄批判①林功三
http://homepage3.nifty.com/gakuronet-takatsuki/soto_050924_01.html

(1)河合隼雄とは何者か-かれの歴史認識
2001年から日本に「心のノート」という国定教材があることは今では一般にもかなりよく知られている。「心のノート」とは何か。一口でいえば、それは心理学の手法をつかって子どもに「道徳」の刷り込みをおこない、愛国心を「涵養」しようとする教材である。文科省は、「強制」の批判を避けるため、「教科書ではない」「副読本でさえない」と弁解するが、これは実質的には一種の教科書である。しかも、検定さえおこなわれないまま、全国に突如一斉配布された、いわばスーパー国定教科書である。通常の教科書とはちがって、著者は明示されていない。ただ一人この教科書の中で名前が出てくるのが「しんりがくしゃ かわいはやお」である。河合隼雄は紛れもなくこの教科書の作成の中心にいた人物である。
 その河合隼雄とはいったい何者だろう。京都にある「日本文化研究所」の前所長、三浦朱門の後を継いだ現「文化庁長官」であることはだれでも知っていようが、かれが政治的にどのような働きをしてきたかは、今でもあまり知られていないようだ。

 河合は小渕内閣のとき首相の私的諮問委員会である「21世紀構想委員会」の座長を務め、愛国心教育の必要性を説いた人物である。この委員会の答申には「義務教育は国家の統治行為」であるとはっきり述べられていた。義務教育は国民の権利で国家はそれを保証する義務があるという戦後民主主義教育の理念がここでは逆転させられている(三宅晶子『心のノートを考える』他)。しかも河合は、自民党国家戦略本部で自民党の国家議員たちを前にして「21世紀日本の構想」という題の講演をおこない、「道徳と宗教が大事になるんじゃないかと思います。ただそのことを『21世紀構想委員会』の最終報告書には意図的に書きませんでした。なぜかといいますと-ジャーナリズムは全部反対するんです。-国民は全部それに同調します。だからそのことは抜いておこう。抜いておくけれども、ぼくらは絶対考えなければならない。だけどこれを極端に政府がとか、総理大臣がといういい方をすると、絶対反対されるされると思いますけど、上手に持っていけばできるのではないか。そういうことを考えるのが我々学者といいますか、そういうものの役割だと思います」といっていた。こういうことばにわかるように、かれは全くの御用学者である。
 そのかれが地元の京都でどのような立ち回りを演じているかを知っていただくためには、たとえばわたしたちの「心の教育はいらない!市民会議」のホームページ
http://sugakita.hp.infoseek.co.jp/newspage26.htm

をのぞいていただきたい。また成瀬謙介の「京都市教育研究会と向き合った一年間とその結果」

http://www.kyokiren.net/_recture/kyouto

というサイトをごらんになっていただきたい。河合が地元の京都で京都市教委と一緒になってこの数年間どれほどえげつないことをしてきたが理解されるだろう。
 河合と一緒に本を出している鶴見俊輔(『倫理と道徳』)、大江健三郎(『講演集』)、井上ひさし(『ミヒャエル・エンデとの対話』)、谷川俊太郎(『魂にメスはいらない』)のような有名な知識人たちも、河合がほんとうはどういう人物であるのかをあまりよく知っていないのではないだろうか。上記の知識人たち以上に問題なのは、こういう書物を刊行している岩波書店や朝日新聞のようなメディアである。これらのメディアはせっせと河合の、また上記の著者たちと共著の図書を出版し、講演会まで開催している。「良心的」といわれているこれらのメディアは、河合が早くから自民党の右翼議員たちと結びつき「教育基本法改正」の方向に舵をとってきたことを知らないのだろうか。知らないはずがない。昔も今も権力に無批判なのが日本のマスメディアである。
 河合は2001年に全国に先立って京都に、教育長の諮問機関「京都市道徳教育振興市民会議」を立ち上げ、市民から「道徳教育市民アンケート」をとろうとした。欧米は一神教の社会で日本は多神教の社会である。日本は八百万の神がいる。欧米はキリスト教の神がいて道徳のしばりがかかっているからいいが、日本はそれがない。だから社会が乱れる。かわりに規範をつくる必要がある。神のかわりに「アンケート」をとったらどうだ、と河合はいっていた(毎日新聞2002年8月20日)。心理学の手法を使って日本の道徳教育を興そうというわけである。傲慢な思考である。
 「臨床心理学者」である河合は日本の道徳教育の歴史をどのように考えているのだろうか。かれに日本の道徳教育の歴史研究を求めることは、木に登って魚を求めるようなものかもしれない。かれには歴史・社会への関心がはじめからまったくないからである。みずからも臨床心理学者である小澤牧子は、早くから、河合のそのような正体を見抜き、警告を発していた(「『心の専門家』はいらない」2002年他)。河合は、「荒廃した」学校教育への対策に困った文部省の方針にしたがってスクールカウンセラーを制度化し、その手配師総元締めとなって出世した男である。はじめから歴史的社会的思考などおよそ期待できない男である。
 しかし、わたしはかれに対していっておかなければならない。かれは私と同じ世代の人間である。戦時中国家主義の教育を強要されて育った世代の一人として、道徳教育を説くのであれば、かれは自らの経験から出発すべきだろう。それが戦時中抵抗することができなかったわたしたちの世代の、いわば最低限の人間的良心だろう。河合はなぜ自分の受けた道徳教育を問題にしないのか。その反省から始めないのか。わたしは1928年生まれで、敗戦の年16歳だった。戦時中の日本には、少なくともわたしの周りには、不服従という事実がなかった。抵抗という概念さえもなかった。わたしは恥ずかしい少年時代を過ごした。今でもその恥ずかしさ、悔しさをわたしはぬぐえない。その恥ずかしさをバネにしてわたしは今も生きている。
河合を問題にするとき、わたしは小泉首相を思わずにはいられない。かれらに共通しているのは途方もない歴史認識の欠如である。なぜ靖国神社参拝をするのかと聞かれた小泉は、「心ならずも戦場へ赴き倒れた兵士の御霊に哀悼の誠を捧げ、不戦を誓う」ためだといい、「われわれの今日あるは靖国に祀られている兵士のおかげだ」という。A級戦犯が合祀されている神社を参拝することを中国に非難されると、日中問題は靖国だけではないのになぜ中国は靖国だけに「こだわる」のか、と居直る。そもそも靖国参拝が不戦の誓いになるというのは、論理的にも全く筋が通らない。靖国神社は軍によって維持された神社で、ポツダム宣言を否定し、戦犯たちを悲運の犠牲者だとして顕彰している神社である。「大東亜戦争」は侵略戦争でなかったといっているのが靖国神社である。その靖国神社に参拝して不戦の誓いをたてるというのは論理にならない。こんなでたらめな発言を、日本のジャーナリズムがまともに批判しないのはなぜだろう。兵士たちが「心ならずも戦場に赴いた」というのなら、かれら兵士を強制的に戦場へ送った支配者がいるはずだ。その支配者がだれかを日本のジャーナリズムは、なぜかれに質問しないのか。また、兵士たちははたしてほんとうに「心ならずも戦場に赴いた」のか。そうではあるまい。かれらは家庭ではよき夫であり、優しい父親だった。その兵士たちがすすんで「お国のために」他国へ赴き、暴虐のかぎりを尽くしたのだ。それが皇軍兵士のまさに本質なのだ。小泉は、日本の今日あるはかれらのおかげだといっている。他国を侵略した兵士のおかげだ、というのだ。日本は侵略によって今日の経済的繁栄をもつことができるようになったと小泉はいっている。あの侵略は日本国民にとっていいことだった、とかれはいっているのだ。小泉の歴史認識がまちがいであることは、中国の人びとに指摘されるまでもない。戦後日本の「繁栄」は、アジアや世界の人びとにたいして最低限の国家賠償さえもなされないまま戦後も継続された収奪によるものであり、そこには多くのゴマカシやウソがあった。そのウソがいま次第に明らかになってきている。小泉と与党は、そのウソのからくりを公然と隠蔽しようとしている。
 2001年の初めに、安倍晋三(当時内閣官房副長官、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」事務局長)、中川昭一(現経産相、当時「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」代表)という新保守主義の議員たちによるNHKへの圧力によってNHKは「国際民衆法廷」の放送の番組を変更させたことが最近問題になっている。NHKははじめからすすんでかれらに追随していた。NHKには批判精神など初めからまったくなかった。批判精神を欠落させたジャーナリズムはジャーナリズムの名に値しない。戦時中の「日本放送協会」の放送をみるがいい。NHKには今もその反省も自覚もない。新保守主義の議員たちも自分たちが正しいと信じている。日本の政治的指導者にとっては、戦前の歴史と戦後はストレートにつながっている。それがかれらの歴史意識である。1945年はかれらにとってターニングポイントではなかった。かれらに歴史の断絶はなかった。原爆が投下されようと、戦争によって2000万人のアジアの人びとが殺害されようと、問題ではない。国体はりっぱに護持された。天皇は「国民統合の象徴」となった。天皇制こそがなによりも大事だとかれらは今も考えている。
 「心理学者」である河合の歴史認識も政治家たちのそれとあまり変わらない。わたしの知るかぎり、「愛国心」がかつて日本人をどのように導いていったかを、河合は論じたことがない。皇軍兵士の心理を河合は問題にしたことがない。侵略した軍隊の兵士たちは、「愛国心」に駆られて戦場へ赴いたのであり、かれらが出兵したのは、天皇制ファシズムにすすんで追随したからである。どこの国のファシズムでもそうだが、ファシズムは民衆を排外主義に駆り立ててやまない。日本も例外ではない。ファシズムの中で日本のマスメディアも戦争を煽り、国民は挙って戦争を支持した。侵略戦争によって日本の国民は多大の利益を得た。でなければ、日本はあの15年戦争を遂行できなかったであろう。しかし、河合は日本のファシズムを正面から問題にしたためしがない。
 河合は日本ファシズムについて無知であるばかりではない。ユング派心理学者を自負するのに、かれはユングとナチズムの関係についても無知である。そのことを指摘しようとするのがこの小論の主旨である。

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2 コメント

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心のノート批判 (matyutyu)
2010-10-11 14:15:39
心のノートについては、確かに「スーパー国定教科書」と批判するのはわかりますが、中盤からの「かれら兵士を強制的に戦場へ送った支配者がいるはずだ」以降は、的確な批判とは思えないですし、ユングとナチの関係を持ち出して河合隼雄を批判するのは、なんだかおかしくないですか。
今更だけど (ヨハン・ヴォルフガング)
2012-03-15 03:32:39
冷戦終結後のグダグダを目の当たりにして来た世代として「ナチは絶対悪」とか「日本もドイツのように反省しろ」みたいな言説は滑稽にすら見える。
「SS国家」の後書き読んで思ったのは「犠牲者数が多い少ない」を基準にソ連と比較すると「すり替え」って言うのはおかしいだろと。
より多くの人間を不幸にする思想が悪であるならマルクス・レーニン・スターリンの線が最悪なのは自明のことなのに。
林氏の反対派に対する物言いは罵倒と言っていいほどの激しさだけど、自省することは出来ないの名。

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