民主党代表選 かすみ始めた「脱原発」/毎日新聞

2011-08-22 13:20:21 | 社会
「脱原発」がかすみ始めた。菅直人首相の退陣が秒読みに入り、原発の維持・推進に理解を示す後継候補が増殖している。民主党代表選は、候補者の器量がB級かどうかよりも、この側面が重要だと思う。

 高名な文芸評論家が「疑問だらけの菅降ろし」と題する一文を毎日新聞に寄せ、脱原発首相に対する批判勢力の言葉の貧しさを酷評した(加藤典洋、11日夕刊東京本社版)。

 それによれば、いま最大の政治課題は原発である。首相は脱原発という新しい価値を明示したが、反対派は現状維持(原発推進)以外に提案がない。足りぬ電力をどうするかは経済の問題だ。反対派は真に必要な政治論戦をサボり、首相の政治努力を空洞化しようとしているにすぎない--という。

 実際、後継候補たちは原発の維持に理解を示している。「原子力技術を蓄積することが現実的」(野田佳彦)、「世界最高の安全基準を策定する」(馬淵澄夫)、「短絡的な脱原発というイメージの独り歩きは危険」(海江田万里)……。

 脱原発志向の候補もいるにはいるが、菅をしのぐまでの執念は感じられない。

 原発と政治を描いて話題の近未来小説「コラプティオ」(真山仁著、文芸春秋7月新刊)は、震災後の日本で政界再編が起き、原発推進派の連立政権が生まれるという話だ。このイメージがあながち荒唐無稽(むけい)とも言えない現状なのである。

 菅はどう見ているのか。知人の問いにこう答えた。

 「もう逆戻りできないところまできたとは思うんですよ。ただ、これ(脱原発)は、社会構造全部にかかわる大政策ですからね。そういう意味では、まだまだこれからですよ」

 政権に未練はないかという質問には、「そんなこと言ったら10年やってなくちゃいけない」。先に引いた加藤典洋の文章にも目を通しており、「見てくれている人は、見てくれている」と自負を語ったという。

 「ポスト菅」候補の面々も脱原発を否定しているわけではない。脱原発とも原発推進ともつかぬ玉虫色へ逃げ込むことが選挙対策になっている。代表(首相)の座も票次第。察しはつくが、それで原発推進の官産複合体と相撲が取れるか。

 原発推進派の世界観にしたがえば「世界の主流は原発推進であり、青臭く迷っているのは日本だけ」である。だが、米露英仏といえども国内で原発不信がくすぶっている。

 なにしろ、世界3位の経済大国で世界最大級の原発(出力でチェルノブイリの3倍)が崩壊したのだ。世界注視の中、強制退去と自主避難を合わせ、10万人が故郷を追われて流浪している。「世界の主流」の皆様に気兼ねして小声で将来を語る必要など、どこにもない。

 「脱原発は決まった、後はスケジュールの問題だ」という訳知り顔の解説もひっかかる。ごもっともだが、そのスケジュールを誰が詰めるのか。刻限が5年と50年では、脱原発と原発推進ほどの違いがある。

 党内最大グループを率いて代表選を左右する小沢一郎元代表の原発観が不明な点も気になる。明確にしてほしい。

 これは「非常識な菅」の代わりに常識家を選ぶ選挙ではない。元代表の操り人形を選ぶ選挙でもない。原発推進の官産複合体に挑み、改革する意志と実力を備えた指導者を選ぶ。その国家意思を世界に示す機会にしなければならない。(敬称略)(毎週月曜日掲載)
http://mainichi.jp/select/seiji/fuchisou/news/20110822ddm002070065000c.html

『疑問だらけの菅おろし 反対派の"凸"が見えない』/加藤典洋

このところの菅直人首相をめぐる政官財のやりとり、政局と、それにまつわるメディアの報道にはあきれる。

長年永田町を取材している記者、政界事情通が、これまでいかに、首相のやり方が陋劣(ろうれつ)で、政官財の有能なスタッフが首相を見放しているかを指摘し、
人徳のなさを罵り、その居座りに業を煮やしているが、それらはすべて「床屋論議」である。

産経新聞のあるコラムは、これまで「心がない」「誠がない」「信がない」と指摘されてきた首相が、退陣をめぐる騒ぎでこのことを証明した、と書く(阿比留比氏、『政論』6月4日)。

これと、政治的立場を異とする本誌コラムも、首相の政治手法に疑問を呈しつつ、「とにかく、菅の言葉には、心がない」と、同様の指摘を行っている(岩見隆夫氏『近間遠見』4月23日)。

右の産経新聞コラムは、「首相の恐ろしさは、特にやりたいことがない空疎さにある」とも言うのだが、
現今の菅政局の問題点は、逆に、反対派の退陣要求から、何を「やりたい」のかが見えてこない点である。

政治家も、官僚も、新聞人も、いまは政治は何を「やるべきか」にふれないまま、首相の人品、居座りをめぐる事情通的な裏話に終始する。
だが我々は、いま未曾有の困難にある。政治の話をしようではないか。

現今、最大の政治課題が原発問題、再生エネルギー法案、発送電分離にあることは、はっきりしている。
電力をどうするか、この夏をどう乗り切るか、など「凹みを埋める」課題は、政治ではなく、経済の問題である。

政治とは何か。

ハンナ・アレントによれば、経済が凹みを埋めるのに対し、政治とは「新しい価値「凸」を創出する」活動をさす。

菅首相は、「やりたいこと」=新しい凸として、脱原発、再生エネルギー法案の上程、発想原分離への意欲をあきらかにした。
しかし、これに誰一人、自らの対抗価値(凸)を明示することなく、人格等の問題にことよせて首相の凸を取り下げさせようとしている。
これが菅降ろし政局の本質であろう。

なぜ、反対派は、彼らの価値(凸)を対置しないのであろうか。
このことは、彼らが要するに、隠れ守旧派であって、自らの提案(凸)としては、現状維持(原発推進)以外にないことを語っている。
表だって反対すれば、自らの価値=凸(原発推進)が明らかになる。
すると国民の信を失う。
そのため、「人心」、手続き等の問題を持ちだし、復旧・電力問題(凹)で国民を脅かし、首相の政治的主張を葬り去ろうとしているのである。
そのいう構造が明白なとき、この構造を指摘する代わりに、首相の「心のなさ」、手法陋劣をあげつらうのは、
産経コラムの如く、ためにする議論でなければ、ジャーナリズムの自殺であろう。

私の目に、東京電力と一体になった、経産省に代表される政官財の勢力がサボタージュを続け、
国民の代表である、首相の政治努力を空洞化させようとしているさまは、戦前の軍部のあり方と瓜二つと見える。
戦前、軍部は、自らの政治的主張(凸)を掲げず、もっぱら凹を押し出し、身分の考えが通らなければ閣僚を引き揚げることで、内閣を総辞職に追い込んだ。

8月4日の、海江田万理経産相による原発関連首脳三名の更迭でも、
更迭理由が「語られ」なかったのは、語れば累が全く同罪の大臣自身に及ぶからだ。
この人は、国会の質疑で泣いたが、その政治家失格、電力共同体の傀儡ぶりが、涙、「言葉の不在」によく表れている。
いま、文民統制が求められるとしたら、自衛隊に対してということよりも、これら政官財の、既得権益共同体に対してであろう。
いま首相がやるべきは、経産相の更迭である。
首相ができなければ、新聞がそれを主張すべきだ。
いま起こっているのは、これら政官財の一勢力による文民の意思の押し込め、戦後の価値の全否定だからである。

現在のメディアに、この種の独立した、思考する力がないのだとは思いたくない。
しかし、このまま行けば「菅降ろし」政局の報道は、メディアの自殺である。



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