語る・平和のために:日中戦争体験者の証言/毎日新聞・島根

2008-08-19 20:54:03 | 社会
語る・平和のために:日中戦争体験者の証言/1 上田政子さん/上 /島根
 ◆元従軍看護師・上田政子さん(82)

 ◇半世紀、胸に秘めた事実--斜面に頭がい骨や手の骨
 日中戦争時、中国・南京第1陸軍病院の看護師だった上田政子さん(82)=松江市八雲台2=は、南京で盛土の下に多くの人骨を見たことを半世紀以上胸に秘めてきた。それを今、語り始めている。

 1944年7月、従軍看護師として戦地に赴いた時だった。汽車や船を乗り継ぎ南京に到着、市内を見学した。幅100メートル、高さ2メートルほどの斜面があり真ん中に道があった。道の脇の石垣に弁当を食べようと腰掛けた。

 「お尻の下がごつごつして痛かった」。石かと思って取り上げると、木の根のように長かった。よく見ると人の大たい骨だった。振り向くと斜面の上には、おびただしい数の頭がい骨や手の骨などが露出していた。

 何層にも人骨と盛土を繰り返した斜面だったが、歳月がたち上部に盛った土が落ちていたため、見つかった。

 「普通なら『人骨だ』と叫んでいたが、軍曹がいて言えなかった」。他の人は気付かず弁当を食べていた。黙っていようと決めた。

 そこは虐殺の現場だった。1937年、旧日本軍が当時の中国国民政府の首都・南京を占領する際、数カ月にわたり、女性、子供も含む市民を無差別に虐殺したとされる南京虐殺事件。犠牲者数は中国側が30万人、日本では十数万~数万人と見方が分かれている。上田さんは後に、南京で見た人骨はこの虐殺で亡くなった中国民衆の骨だと確信する。

  ■  ■

 上田さんは知夫村出身。1942年から2年間、松江赤十字病院救護看護婦養成所で学んだ。卒業後、戦地に赴く前に母親がヤツデに酒をふり、神棚に向けて振った。「元気に帰らしてください、元気に帰らして下さい」と祈る母に「胸がいっぱいになった」。ヤツデの葉の上に乗せた杯に、父が注いでくれた酒を飲んだ。帰国したら、結婚の約束をしていた男性もいた。

  ■  ■

 中国での救護活動は患者の収容から始まった。負傷兵や病人が揚子江を下る病院船で運ばれてきた。上田さんら看護師は汽車で川のほとりまで向かった。船の中には多くの患者がいた。4人で一つの担架をかつぎ、患者を病院まで運ぶ。負傷兵を何度も運んでいくと、担架をかつぐ肩には擦過傷ができた。「ドボン、ドボン」。船の反対側では毛布にくるまれた遺体が川に放り込まれていた。

 仕事は看護だけではなかった。防空ごうを掘らされ、竹やり訓練、終戦前には銃を持たされた看護師もいた。

 「死にたくなってくるのよ」

 一緒に働いていた先輩看護師が、終戦2日前に自殺を図った。前日「一緒に死のう」と言われていた。いつも部屋に呼んでくれるのに「来ないで」という先輩を不思議に思い、部屋を開けてみると、先輩は麻酔薬を大量に飲み、白衣姿で倒れていた。

 一命を取り留めたが、部隊長は「自殺者は国賊」と言い放って、倉庫に彼女を閉じこめておくよう命じた。しかし、病院で働いていた中国人女性たちが「殺された自分の子供のつもりで世話をする」と申し出て、先輩が息を引き取るまで看病を続けたという。

 終戦を迎えてもすぐに帰国することはできなかった。不安を抱える生活の中で、南京に来たころに見た人骨のことは「死んでも言うまい」と忘れ去ろうとしていた。=つづく

   ◇

 北京五輪に沸く中国。「平和の祭典」とされる舞台の周辺では、かつて日中両国による激しい戦闘が繰り広げられ、一般民衆も多数犠牲となった。日中戦争を体験した2人の証言から、平和について考える。【御園生枝里】

毎日新聞 2008年8月13日
http://mainichi.jp/area/shimane/news/20080813ddlk32040472000c.html
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語る・平和のために:日中戦争体験者の証言/2 上田政子さん/下 /島根
 ◆元従軍看護師・上田政子さん(82)

 ◇よみがえる光景「伝えねば」--濁流に漬かった2年間
 中国の南京第1陸軍病院の従軍看護師として働いていた上田政子さん(82)=松江市八雲台2=は1945年8月15日、南京で終戦を迎えた。「部隊長は部下を捨てて、真っ先に帰国した」と怒りを隠さない。夜は地下室で毛布1枚で眠り、食べ物もなくなっていった。46年1月、ようやく帰国命令が出た。重傷患者を担架でかつぎ、列車に乗り込んだ。

 上海から出港する船の甲板で、黄色く濁った川の水が海に近づくにつれきれいになっていく様子を眺めた。「濁流に漬かっていたような2年間が清流に洗われるような気持ちになった」と振り返る。

 帰国後、結婚の約束をしていた男性の死を知った。男性は46年、捕虜として抑留されていた旧ソ連・シベリアで亡くなっていた。「婚約者の亡くなった大陸を踏みしめたい」と47年、引き揚げ船に看護師として乗り込んだ。ナホトカでは、遺骨の代わりに石ころを拾い、線香を大地にまいた。

 引き揚げ者は「日本の看護師さんがいるぞ、日本に帰れるぞ」と絶叫した。

  ■  ■  ■

 婚約者を亡くした上田さんはその後、独身のままで通し、53年から国立ハンセン病療養所「長島愛生園」(岡山県)に勤務した。

 当時、療養所は生活も医療の環境も劣悪だった。治療に使うガーゼが十分になく、亡くなった人の着物や布団を切ったものや、一度使ったガーゼを消毒して再使用していた。

 入所者から、戦時中の話も聞いた。予算が少なく入所者は飢餓状態だったという。「目の見えない人も手足の不自由な人も、開墾してじゃがいもなんかを作った」。衛生環境が悪く、赤痢が広まり1年で300人以上が亡くなったという。81年まで勤務し、看護師人生を全うした。

  ■  ■  ■

 南京で人骨を見たことを黙ってきた上田さんは94年、商用で中国に行くという親せきに初めてその時の光景を語った。しばらくして、その親せきは中国政府要人からの話として、南京では今でも方々の山から人骨が出ていることを上田さんに伝えて来た。

 日中戦争下の1937年、旧日本軍による南京大虐殺。半世紀前の光景がよみがえった。「伝えなければ」。突き動かされた上田さんは、ペンを握り毎日新聞に投稿した。毎日新聞94年5月14日朝刊「みんなの広場」に掲載された上田さんの投稿文は、こう結んである。「あれは南京市民の虐殺された遺骨であったかどうか、私には証明できないが、私が見たおびただしい人骨の山は決して幻ではない」

  ■  ■  ■

 上田さんは南京大虐殺70周年の昨年8月、南京を訪問した。通訳に当時の状況を説明すると、それは南京大虐殺の犠牲者で、人骨を約50段重ね、盛土をした様子がそのまま南京大虐殺記念館に残されているという。この時、修復中だった記念館訪問はかなわなかったが同年12月、「神戸・南京をむすぶ会」のメンバーとともに再訪し、リニューアルされた記念館を見学した。同時に講演で中国の人々を前に自身の体験を告白した。

 「南京大虐殺の犠牲者数には議論があるが、虐殺は確かにあった。私は命をかけて証言します」。講演を終えると、上田さんは大きな拍手を浴びた。=つづく

   ◇

 次回は、大量虐殺を目の当たりにした旧日本軍元兵士の証言を紹介する。【御園生枝里】

毎日新聞 2008年8月14日
http://mainichi.jp/area/shimane/news/20080814ddlk32040523000c.html
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語る・平和のために:日中戦争体験者の証言/3 難波靖直さん/上 /島根
 ◆旧日本軍元兵士・難波靖直さん(87)

 ◇クリスマスの大虐殺--叫び声、今でも聞こえる
 「今でも叫び声が耳について離れない。そこにおれば私もやったに違いない」。難波靖直さん(87)=松江市西津田2=は旧日本軍機関銃隊の弾薬手として中国で戦った。1943年12月25日、難波さんの隊は湖北省の200戸ほどの集落で女性、子供を殺し、焼き払った。「猫の子一匹残さず殺せ」の命令。難波さんの中隊は離れた場所で集落から逃げてくる人を撃ち殺した。

 山の向こうでめらめらと燃える炎と「いやー」と泣き叫ぶ女性、子供の声は忘れることができない。「クリスマスの度に思い出す。申し訳ない」と語る。

  ■ ■ ■

 難波さんは飯南町出身。松江商業学校(現松江商業高校)を卒業し、大阪府の江崎グリコで働いた。1942年7月、補充兵として召集。訓練を受ける間もなく1週間後、中国に渡った。上海に到着したときの写真に難波さんは「侵略の第一歩」と記している。

 第39師団232連隊第1大隊第1機関銃中隊に入隊、漢口の西方、荊門と当陽付近に配置された。現地で3カ月の訓練をした。

 訓練では農民を捕まえて、首を切るのを見せられた。「一人でも多く殺せばいい。殺せば殺すほど手柄になった。良心がまひしてしまう」。初年兵や見習い士官の最初の度胸試し。何の罪もない農民がほとんどだった。敵陣がどこに泊まったか、どっちに向かったかなどの質問に農民が答えないと、捕まえて拷問にかける。

 難波さんは衛兵として拷問を受けた人が集められた牢(ろう)を監視した。うめき声や「シーサン、シーサン、水を下さい」と兵隊を呼ぶ声がした。拷問した人を帰す訳にはいかない。各中隊に「処分しろ」と2、3人ずつ“配給”される。初年兵、見習い士官、幹部候補生の教育の材料に使う。最初はほとんど失敗する。何回も怒られてできるようになる。「そうして首を切るのを覚える」

 死にきれず苦しむ人の胸ぐらを引き起こし、柱に縛り付け古参兵が「突け」と言う。殺すと、縄をほどき、穴のふちにもっていく。くいで支え、今度は将校が首切りの実験にする。首が前に飛んでいく、真っ白な肉が見えると、血が噴き出し、体が前に倒れ穴の中に落ちる。

 難波さんはなるべく後ろの方に隠れて「順番が来ないように」と願った。前の人が失敗した。古参兵が「人を殺すときにはこうやって殺すんだ」と手本を見せた。集落の中国人が後ろから見ていた。見せしめだった。「順番がきたら目をつぶってでもやらなければいけなかっただろう」と覚悟したが、自分の番は来なかった。

 罪の意識はなかった。「元気で早く日本に帰りたい」と上官のご機嫌を取って従った。「我々は歯車で軍を上手に回した。おわびのできない戦争犯罪」と悔やむ。

 見習い士官が「くの字」に曲がった日本刀を持ち帰ってきたことがあった。「何で曲がったのか」と尋ねると「後ろの河原で国民党軍の負傷兵がようけ転がっとった。それを全部、川端に立たせて首を切った。そのときに切り損ねて刀が曲がった」と言い放った。

  ■ ■ ■

 難波さんは、当時の様子を克明に語りながら、何度も「申し訳ない」「おわびしたい」と謝罪の言葉を繰り返した。戦争について語らず亡くなる人もいるが、「悩みに悩んで亡くなる、戦争とはそういうものだと思う」。そして、43年の「クリスマスの大虐殺」の話に入った。=つづく【御園生枝里】

毎日新聞 2008年8月15日
http://mainichi.jp/area/shimane/news/20080815ddlk32040486000c.html
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語る・平和のために:日中戦争体験者の証言/4止 難波靖直さん/下 /島根
 ◆旧日本軍元兵士・難波靖直さん(87)

 ◇歯車の一つ担った責任--すべてを伝え託す
 旧日本軍元兵士、難波靖直さん(87)=松江市西津田2=は、1943年12月25日の出来事を鮮明に語った。

 中国・湖北省の200戸ほどの集落。男性たちは山に上って寺の挺(てい)進大隊本部に集まっていた。家に残るのは女性、子供、老人だけだった。それを知っていながら、大隊長は「猫の子一匹残さず殺せ、ものは全部取って帰れ」と命令した。「夜、こっそり取り囲み全部焼いて、全部殺した」。難波さんら機関銃中隊は少し離れた場所で、退路遮断のため、逃れてくる人を撃ち殺した。難波さんは弾薬手として、弾を込めた。燃え上がる炎。女性、子供の悲鳴が聞こえてきた。

 集落で何が行われたか、帰り際に仲間が話してくれた。

 民家の中に日本兵が押し入る。女性が眠る寝台の前で、おじいさんが座っていた。おじいさんを外へ出し、女性に乱暴しようとすると、病気で異臭がし近づけなかった。おじいさんは「病人だから助けてやってくれ」と懇願したが、上官から「何ぼやぼやしてるか」とどやされた兵士は銃で女性を撃った。おじいさんを家に閉じこめたまま、火をつけた。

 最後は残った人全員を銃剣で追い立て、家の中に入れた。扉にかんぬきをかけ、火のついたわら束を中に投げ込み、焼き殺した。「聞いた叫び声はこの声だった。おれば私もやったに違いない」

  ■ ■ ■

 終戦を迎えたが、難波さんは旧ソ連・シベリアの捕虜収容所で約5年間過ごした後、戦犯として再び中国に戻され、56年まで帰国を許されなかった。

 1950年7月、収容された中国・撫順(ぶじゅん)戦犯管理所は日本軍が設置した監獄で、処刑場もあった。シベリアでは過酷な労働を強いられたが、この管理所では1年目は自由に過ごし、2年目は「毛沢東語録」を中心に共産主義の勉強をした。3年目から日本語通訳700人が入り、罪を隠さず述べるよう指示された。一人一人書き出し、1室16人の前で発表する。指導員が現地で事実調査し、間違いや漏れがあれば再び問われた。

 人を直接殺したことがなかった難波さんは「罪の意識」を理解するため、40~50人の証言の記録をさせられた。「殺した、強姦(ごうかん)した、焼いた、取った」という話ばかり。「銃を持って中国に渡ったという罪の重さが分かった」。憲兵や警察が容赦なく中国人を捕らえて拷問、その後に訓練や人体実験に回し、殺していたことを知った。「戦争は一人ではできない。軍国主義の歯車の一つを担った責任を感じた」

  ■ ■ ■

 6年間を戦犯管理所で過ごし、1956年8月に最高人民検察院の「起訴を免除し、釈放する」という決定で帰国がかなった。京都府・舞鶴で迎えてくれた兄弟から両親の死を伝えられた。59年から、中国帰還者連絡会の活動に専念、事務局長として、会員が体験を語る場を用意した。

 05年に事務局長を譲り、半世紀ぶりに中国を訪問。撫順戦犯管理所にも足を運んだ。そこには懐かしいアサガオがまだ植えられていた。その種は今、難波さんの自宅前でも小さな花を咲かせている。

 難波さんは今、持病を抱え、通院や投薬を続け、送迎してもらいながら講演を続けている。「私ももうこの年。すべてを引き継いでおかないと」と、戦後生まれの世代らで昨年11月に発足した平和市民団体「あさがおの会」に資料や講演のビデオなどを託そうとしている。「平和のために市民が立ち上がる礎を一歩でも築きたい。そのために生きたい。伝えたい」と目を潤ませて語った。=おわり【御園生枝里】

毎日新聞 2008年8月16日
http://mainichi.jp/area/shimane/news/20080816ddlk32040362000c.html

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「捕虜を刃物で刺す殺害訓練、64年前の感覚いまだ手に…」
韓国 中央日報 Joins.com 2008.08.14 08:45:56

「私は中国人捕虜を銃剣で突き刺し殺害した64年前のことをいまでもはっきり
と覚えている」--。
第二次世界大戦当時、日本軍に徴収され、中国で服務した早稲田大の名誉教授
(83)が13日、朝日新聞に中国人捕虜を対象に「殺人訓練」をしていた当時
の状況を告白した。名前を明らかにしていない同氏は「死ぬ前に必ず真実を伝え
なければならない」とし、当時を回想した。
同氏は19歳だった1944年11月、日本を発ち、翌月、中国山西省に到着し
た。同氏を終生罪悪感に陥れた殺人訓練は、翌年1月に行われた。普段とは違う
訓練場に移動すると丸太2本が立てられており、しばらくするとほかの日本軍兵
士らが後ろに手を縛られた中国人捕虜2人を連れてきた。
当時、日本軍の殺人訓練は新兵の胆力をつけるという名目で行われていた。新兵
は2組に分けられた。中隊長の「突撃」命令によって前方にある「敵」に駆けつ
け、銃剣で生きている人間を突き刺さなければならなかった。
同氏は「私の手にはいまだ当時の感覚が残っている」と告白した。日本が敗亡し
た後、同氏は何度も夢を見た。自身が敵になり銃剣に突き刺される瞬間、目覚め
ることもあった。
同氏は当時の状況などを含めた戦時の体験をエッセーの形式でまとめている。殺
人訓練も鮮明に書かれているが、まだ原稿を整理中だ。同氏は「弟子によって遺
稿集として発表されることを望んでいる」と語った。また「私は人道的な罪を犯
している」と強調した。

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=103506&servcode=A00§code=A00

*この記事にコメントを貼り付けまくるネット右翼諸氏の愚劣さも参考になります


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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
コメント (よしざわ)
2008-08-20 22:03:38
>*この記事にコメントを貼り付けまくるネット右翼諸氏の愚劣さも参考になります

どのようなコメントがあったのか気になります。
せめて代表的なコメントとそれに対する意見を書いていただきたいですね。
消されるだけなら
コメントが痛いので読まれたくないのだと
受け取れれますよ。
返信する
言葉足らずで (薔薇)
2008-08-20 23:32:04
このブログに、ではなく、韓国 中央日報の記事に対するコメントのことです。リンク先をご覧ください
返信する
「>コメントが (イタい」)
2008-08-21 00:08:00
その意味は、余りに内容が恥かしい無知ップリを曝け出して、国辱の余り削除されてるんでしょうねぇ。
そんなB層右翼を国民として内包する事自体が、日本の恥でしかないからでしょ。
まあ、東中野とか、稲田朋美とか、B層右翼裁判を見てれば判るような内容なんでしょうがねぇ。
まあ、熱湯欲はもっと同じ台詞の繰り返しで、痛々しさでは更に下という事情もあるか知れない。
不幸です!彼等自身の人生もね。
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