スポーツの脱政治化? ワールドカップ報道が伝えないこと/小倉利丸

2006-06-27 23:54:41 | 世界
Say no to racismというスローガンが今年のワールドカップ・ドイツ大会のスローガンだということを知っている日本のファン、サポーターがどれくらいいるだろうか。FIFAワールドカップ・オフィシャルサイトに頻繁にアクセスして試合動向をリアルタイムでチェックする熱心なファンでも、このスローガンは知られていない。
6月4日付けでFIFAがメディアリリース、「2006年FIFAワールドカップで反人種差別を展開」を公表(6月9日付けのメディアリリースも参照))し、日本の公式サイトにも掲載されているが、このことに気づいている人は少ない。このリリースの中でFIFAは次のように述べている。

引用:
FIFAはかねてから人種差別問題に留意していたが特にヨーロッパにおける最近の出来事により、断固とした拒否活動を至急、開始する必要があると判断した。現実的には国や地域レベルで主要な対策を講じ、実施されることが不可避だが、FIFAは、専門知識や経験を共有しながら見解を一致させ、実効力のある解決方法を見出していくという独特の役割があることを認識した。


FIFAがこのように述べた背景には、このドイツ大会を控えて、ドイツのネオナチが活発な人種主義的なデモを繰り返し、民族差別を煽ってきたという経緯がある。『読売』は、6月10日に、ドイツのゲルゼンキルヘンで大規模なネオナチ政党(ドイツ国家民主党NPD)のデモがあったと報じている。「NPDのデモは、「失業対策の批判」が表向きの理由だが、これまでに黒人のドイツ人選手が代表入りすることを批判するなど人種差別をあおるキャンペーンを展開。大統領がホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を否定しているイランの代表チームを支援するなど、W杯を政治に利用する姿勢を見せていた」と報じている。

さてFIFAはこの大会で、Say no to racismのロゴの他に次のような取組をするという。
●人種差別反対のテレビスポット
●準々決勝の全4試合はこのために捧げられ、キックオフの前に主将はサッカーと社会から差別撤廃の宣言文を読み上げる。
●6月28日 FIFAはベルリンSMC(スタジアム・メディア・センター)での記者会見でFIFA反人種差別デーを開始し、サッカーの代表者と世界のリーダーを通じて人種差別に対する戦いへの支援を示す
●らゆる出身、宗教、国籍および肌の色の人々に向けられた前向きで包括的な雰囲気を醸成するため、「サッカーは団結」と呼ばれるプロジェクト
●世界中からやってくるファンがドイツ人やドイツ在住の移民の若者たちと触れ合う機会を設け、人権尊重を啓蒙する。FIFAワールドカップにおける移民と少数民族の社会的統合を図り、彼らマイノリティのサッカー試合の観戦、クラブでのプレー、あるいはクラブの応援への増進を図る。
●LOCとKOS(ドイツファンプロジェクト協調センター)との協調のもと、スチュワードとボランティアは人種偏見、極右翼、差別に関する訓練を受けた。
●「基本的冊子」を用意し、ネオナチと極右グループがよく使う記号、シンボル、唱和を説明し具体的な行動についてのヒントを提供
●FAREは反人種差別のファン向け雑誌を英語、ドイツ語で出版し選手の声明とサッカーにおける人種差別の情報を掲載する。
などだ。

上に出てくるFARE(football against racism in europe)のサイトには、ファン、サポーターによる様々な取組が紹介されているだけでなく、各チームのキャプテンによる人種差別反対のメッセージも掲載されている。ちなみに、日本の宮本は「世界中の人達が本当に楽しめるっていうことがサッカーの一番すばらしいことだ。いろんな感情があるかもしれないが、スタジアムやテレビの前で熱狂するひとたちに人種差別主義は見られな」といったコメント。しかし、現実はそうではない、ということをドイツ大会はメッセージとして送ろうとしているのだが...。

FIFAの報道発表を読むと、人種差別反対以外にもさまざまな社会的政治的なメッセージを発していることがわかる。もうひとつ注目すべきなのは、「FIFAがUNITAIDを無条件でサポートすると発表」というメディアリリースだ。このリリースで次のように述べている。

引用:
UNITAIDは、航空券に国際的な連帯税を課すことによって、国際的な医薬品購入組織が開発途上国において医薬品購入を推進するための投資基金を募ることを目的としている。このプロジェクトはフランス、ブラジル、ノルウェー、チリのイニシアチブで設立されたものだが、今では支援国は世界約40ヵ国にまで増え、WHO(世界保健機関)、ユニセフ、UNAIDS(国連共同エイズ計画)などの援助も得ている。コフィー・アナン国連事務総長、ネルソン・マンデラ氏、ビル・クリントン氏などの著名人をはじめ、多くの人々がこの人道的プロジェクトを支援している。


これはいわゆる「航空券税(国際連帯税)」とよばれて、貧困やHIV/AIDSなどの問題に取り組むための目的税として提案されている取組みなのだが、日本政府がかたくなに導入を拒否し、ドイツ政府も反対していたが、アッタクドイツなどが積極的に導入の働きかけをしてきた。こうした動きと今回のFIFAの決定はなにか関わりがあるかもしれない。(『グローカル』2006年3月27日号参照

FIFAのこうした取組みが日本にほとんど報じられていない現実をどう理解したらいいだろうか。少なくとも、ワールドカップの放送でこれらのドイツ大会の取組みが紹介されたのを聞いたことがない。UNITAIDへの支援の「象徴として、本大会64試合ではキックオフの前に両チームのキャプテンによって、UNITAIDのロゴをつけたオフィシャルボールが交換されることになっている。」とメディアリリースには書かれているが、交換されるボールにこんな意味があるのだということは中継でも報じられたことはないのではないか?

私は、問題はふたつあると思う。ひとつは、FIFAは本気なんだろうか?という疑問である。ワールドカップは莫大な金が動くスポーツビジネスでは最大級のものだ。スポンサーや放映権、チケットの売買をめぐる汚職が報じられることもある。FIFAやドイツの組織委員会にとって、ネオナチ対策としての反人種差別主義はビジネスとしてのワールドカップの成功という目的のための手段であって、かれらの組織は人種差別をなくすことが目的ではない。このような限界を抱えてのキャンペーンでしかないから、ネオナチにたいするある程度の抑止力となる以上の効果を期待してはいないのでは、とおもう。FIFAの反人種差別のテレビスポットを私は見た記憶ない。FIFAは、日本のパブリックビューイングの開催にまで介入するほどスポンサーや放映権などの利権にはうるさい。そのFIFAが本気で世界中の人々にメディアを通じて人種差別の撤廃をアピールしようと努力しているとはみえないのだ。

もうひとつの問題は、いうまでもなく、日本のメディアだ。人種差別とワールドカップは無関係だとか、スポーツに政治を持ち込むなとか、という建前が通用しないのがサッカーだということはよく知られているが、日本のスポーツ文化は脱政治的であることを好む。(もちろん、表向きの話だ)理由ははっきりしている、大衆文化が政治化するとき、とりわけ反政府的な傾向を持つとき、文化は大きな力となるからだ。

サッカーのサポーターやファンは、同時にさまざまな社会階層を代表し、あるいは社会の矛盾の中を生きる大衆そのものだ。あのイタリアのInter Milanは、メキシコのサパティスタ民族解放軍の活動を支援し、メキシコのチアパス州でのスポーツ、飲料水や保険医療のための資金支援し、親善試合も実施したりした(Indymadia-UK)。他方で、AC Milan にはイタリアの富裕な右派のファンが多い。ローマのLazioは、かつてファシズム時代にムッソリーニが保有していたクラブで、現在もファンの中にはファシストの傾向を保持しているものが多いといわれている。スペインのFC Barcelonaとそのファンたちは、スペイン内戦でフランコ独裁と闘った歴史をもつ一方で、Real Madridのファンはフランコ支持派が多くいたという。(以上は、Simon Black,"A socialist's guide to the World Cup”からの受け売り)。こうしたなかで、階級、文化、政治の対立がファンの社会集団の対立と密接に関わる構造をもってきた。上のサイモン・ブラックは、イギリスからカナダへの移民だが、政治とサッカーが分け隔てられることなく家族の会話では当り前のように論じられてきた子ども時代を語っている。こうしたスポーツや大衆文化(音楽も同様だが)における政治的なコンテクストが日本の中では形成を妨げられてきたために、メディアもまたスポーツにおける政治性を忌避しようとし、こうしたメディアの態度がまたスポーツの政治性を排除する傾向を再生産してきた。

サッカーに関しても、日本の私たちは人種差別の問題と無関係ではない。なぜアジア予選で朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮と呼ぶ)との試合が第三国での無観客試合となったのか。少なくとも、日本のサポーターやファンたちの間に、日本と北朝鮮の間の植民地支配の時代を含む歴史とナショナリズムをめぐる問題がどのくらい自覚されていただろうか。

サッカーの試合を見るたびに、巨大な日の丸の旗や、日の丸のフェースペインティングをしたサポーターたちの屈託のない笑顔を見るたびに私は憂鬱になる(日の丸に憂鬱になるのだが)。じつは、国際試合が国別対抗という形式をとる限り、上に述べたようなさまざまな社会的な対立や摩擦を反映したファンの社会集団も結局はナショナルなアイデンティティに収斂することになるのだろうか?そしてナショナルな対立の構図に回収されてしまうのだろうか。ネオナチのような有色人種やユダヤ人差別は許されなくても、国家やナショナリズムを排除できない国別の国際試合は、結局の所、植民地主義(アンゴラとオランダ、ガーナとイングランド、ドイツとポーランド、そして韓国と日本など)の記憶をその旗や歌といったシンボルによって喚起することからは逃れられない。このジレンマのなかから、ナショナリズムを相対化するきっかけをつかむことは大変難しい。むしろ、日の丸や君が代は日常化され脱歴史化されたナショナルなアイデンティティのシンボルとして再生産される。しかし、こうして再生産されるナショナルなシンボルを見たり聞いたりするアジアの人々の感じかたは、日本のサポーターたちとは異なる感情や歴史的な背景をもっているということを、日本のサポーターやファンたちは真剣に理解しようとしているだろうか。

FIFAの反人種差別キャンペーン限界(UNiTAIDの支援も別の意味で同じ限界をもつが)は、ナショナリズムを越えられない国際試合という枠組にあるが、しかし、じつはサッカーファンはFIFAやスポーツビジネスの単なる操人形ではない。日の丸を振らない、君が代を歌わないサポーターやファンたちは確実に存在する。彼らは資本や国家の思惑を越えることがある。だから、スポーツは政治的であることがありうるのであって、面白いのだともいえる。

もうひとつ、最後に。いつもスポーツイベントで大きな問題になるのがスポーツウェアに関する子どもの労働や第三世界の搾取の問題だ。今回もこの問題では、オックスファムが大手スポーツメーカーへの調査を実施した。日本の企業では、ミズノとアシックスが対象となり、ミズノに対しては、「より積極的なダイアログの開催や、独立した労働組合や労働人権団体との協力関係の構築を通して、サプライチェーン内での人権に関する認識の向上を進めることを強く求めています。」という結果になっている。
Offside!: labour rights and sportswear production in Asia
 


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