砂川事件:「伊達判決」直後、日米密談の文書存在 外務省が一転開示

2010-04-03 23:37:53 | 社会
伊達判決で日米会談 米圧力疑惑の記録開示/東京新聞
東京都砂川町(現立川市)にあった立川基地の米軍駐留を違憲とした一九五九年三月の東京地裁の「伊達(だて)判決」をめぐり、判決翌日に当時のマッカーサー駐日米大使が藤山愛一郎外相と会談して外交圧力をかけたとされる問題で、外務省が「記録がない」としていた従来の姿勢を転換、会談の事実を認めて、大使と外相のやりとりの速記録を関係者に情報開示したことが二日分かった。

 核持ち込みなどをめぐる密約問題で、政府の“うそ”が明らかになったばかりなだけに、外務省の従来の情報公開に対する姿勢に批判が出そうだ。

 米軍立川基地(七七年に返還)に立ち入ったとして逮捕・起訴された「砂川事件」の元被告や市民団体「伊達判決を生かす会」が情報公開請求していた。元被告の一人、土屋源太郎さん(75)=静岡市葵区=は「今までは『一切ない』との回答だったので、一歩前進だ」と評価している。

 開示された速記録は五十一年前に手書きされた書類のコピーで判読が困難。情報公開請求にかかわった弁護士らが三日から分析作業を始めるという。

 伊達判決をめぐっては、機密指定を解かれた米公文書から、マッカーサー大使が違憲判決を懸念し、東京高裁への控訴ではなく、最高裁へ跳躍上告すべきだとの考えを藤山外相に伝えたことや、同大使が田中耕太郎最高裁長官(当時)と密談したことが二〇〇八年四月に明らかになっている。

 元被告らは米側の露骨な内政干渉だとして問題視。真相解明を求め〇九年三月、最高裁と外務省、内閣府に情報公開請求した。しかし、いずれも「記録がない」として不開示の回答だった。その後、政権が交代したことから昨年十月、法務省を加えた四機関に再度、情報公開請求をしていた。最高裁と内閣府、法務省の回答は不開示だった。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2010040302000084.html

砂川事件:「伊達判決」直後、日米密談の文書存在 外務省が一転開示/毎日
 東京都立川市にあった米軍立川基地を巡り、米軍駐留を違憲とした59年の「伊達判決」直後に、当時の駐日米大使が日本側の外相や最高裁長官に面会していた問題で、外務省が「関連文書不存在」としていた従来の姿勢を翻し、文書の存在を認めたことが分かった。政権交代を受けて、文書を開示するよう再請求していた元被告側に2日夕開示した。一連の「密約問題」同様に、情報公開の趣旨を逸脱するこれまでの外務省の姿勢が明らかになった。【野口由紀】

 開示を求めていたのは、同基地への立ち入りを問われた「砂川事件」の元被告、坂田茂さん(80)=川崎市中原区=と支援者ら計40人。

 同事件の1審「伊達判決」を巡り、当時のマッカーサー駐日米大使が藤山愛一郎外相と会い、控訴を経ずに上告する「跳躍上告」を勧めていたことや、大使と田中耕太郎最高裁長官が上告審の時期の見通しについて密談していたことが08年4月、米側公文書で判明。元被告らが、09年3月に情報公開請求したが、法務省、外務省、内閣府、最高裁の4機関は同年5月までに、大使との会議記録などに関し「不存在」と通知していた。

 今回、一転して外務省が公開したのは、伊達判決2日後の59年4月の「藤山大臣在京米大使会談録」。「極秘」との印が押された手書き文書で計34ページある。今後、支援組織の弁護士らが読解を進める。

 公開の再請求は、昨年9月の政権交代で、岡田克也外相が一連の日米密約の調査を指示したことを受け、10月に行った。外務省以外の3機関は11月、以前と同じ理由で不開示としたが、外務省は12月25日、「現時点までに、該当文書を特定することができなかった」として、不開示を通知したものの、「最終決定ではなく、引き続き調査を行う」としていた。

 坂田さんは「内容をよく見ないと分からないが、一歩前進だ」と喜び、同じく元被告の静岡市葵区、土屋源太郎さん(75)は「密約問題への世論が高まり、外務省としても真剣に考えざるを得なかったのだと思う」と話している。

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 ■ことば

 ◇砂川事件
 1957(昭和32)年7月、米軍立川基地拡張に反対するデモ隊の一部が基地に立ち入り、同年9月に23人が日米安保条約に基づく刑事特別法違反容疑で逮捕され、うち7人が起訴された。59年3月、東京地裁は米軍駐留は違憲として7人に無罪を言い渡した。伊達秋雄裁判長の名前から伊達判決と呼ばれる。検察側が跳躍上告し、最高裁が59年12月に1審を破棄。当時は日米安保条約の改定を60年1月に控え、日米両政府とも米軍基地の存在を違憲とする伊達判決を修正することが急務だったとみられる。

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 ◆砂川事件をめぐる経過◆

1957年 7月 米軍立川基地にデモ隊が立ち入る

      9月 23人が刑事特別法違反容疑で逮捕。後に7人が同罪で起訴

  59年 3月 東京地裁が「米軍駐留は違憲」として7人に無罪判決(伊達判決)

      4月 検察側が最高裁に跳躍上告

     12月 最高裁、1審を破棄、差し戻しを命じる

  60年 1月 日米安保条約改定

  61年 3月 東京地裁、7人に罰金2000円の判決

  63年12月 最高裁、上告棄却を決定。有罪確定

2008年 4月 59年の最高裁判決の前に駐日米大使と最高裁長官が密談していたことが米側公文書で判明

  09年 3月 元被告らが日本側の記録開示を4機関に請求。5月までに「文書不存在」として不開示

     10月 元被告らが再度、4機関に開示請求

     11月 内閣府など3機関が同様理由で不開示

  10年 3月 外務省が開示と通知
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20100403ddm041040161000c.html

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1957年7月、東京都砂川町(現立川市)の米軍旧立川基地の拡張に反対したデモ隊が基地内に立ち入り、7人が日米地位協定の実施に伴う刑事特別法違反罪で起訴された。東京地裁の伊達秋雄裁判長は59年3月、「日米安保条約に基づく米軍駐留は違憲」として、7人に無罪を言い渡した。検察側は東京高裁への控訴ではなく最高裁へ跳躍上告をし、最高裁は同年12月、「高度の政治性を有しており、明白に違憲と認められない限り、司法審査の対象外」として一審判決を破棄、差し戻した。その後、7人は罰金刑の有罪が確定した。跳躍上告の背景には、60年の安保条約改定が間近に迫っており、日米両政府が駐留を違憲とした判決の修正を迫られていたことなどが指摘されている
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砂川事件の“米工作”を一転開示 駐日大使と外相会談録/共同
 米軍旧立川基地の拡張計画に絡む「砂川事件」で、米軍駐留を違憲とした1959年の東京地裁判決(伊達判決)直後、米側がこの判決の破棄を狙って持ち掛けたとされる会談の関連文書について、外務省が「存在しない」としていた姿勢から一転、開示したことが3日、分かった。

 政権交代を機に昨年10月、2度目の文書開示を求めた同事件の元被告の一人、土屋源太郎さん(75)=静岡市葵区=らの請求に応じた。開示決定は3月31日付。

 土屋さんは「存在しないとしてきた文書が出た意味は大きい。ほかにも関連文書がある疑いも残り、調査を続ける」と話している。

 開示されたのは、当時の藤山愛一郎外相とマッカーサー駐日米大使との会談内容を記した「藤山大臣在京米大使会談録」の計34ページで、伊達判決2日後の59年4月1日付。読みにくい部分があり、支援の弁護士らが今後、内容を精査する。

 砂川事件をめぐっては、伊達判決直後にマッカーサー大使が藤山外相と面談し、東京高裁へ控訴せずに最高裁に上告する「跳躍上告」を勧め、最高裁長官とも密談していたことが、機密指定を解除された米公文書で2008年4月に判明。
http://www.47news.jp/CN/201004/CN2010040301000316.html



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